ずっとこのままなのでしょうか?
初めて相談させて頂きます。
私は母子家庭であまり裕福な生活ではなく、それでもそれを不幸とは思わず、妹と母と3人で暮らしてきました。
私はお菓子を作る職業とファミレスで働いています。
去年妹が入籍し、母と2人暮ししていたら突然別居していた父が脳梗塞で倒れ、これ以上父に一人暮らしはさせられないと判断し、今は3人で生活しています。
しかし母もリウマチ持ちで症状が悪化しながら父の面倒を見なくてはならなくなったため、できるだけ私も手伝うようにはしていますがイライラするようで、愚痴をよくこぼすようになりました。
家の状態がこんなに不安な中、周りでは結婚したり、赤ちゃんが出来たり、入籍間近だったり、幸せな報告ばかり入ってきます。
しかし報告をくれる皆さんはとてもいい人たちなので、もちろん幸せになってほしいし、結婚式のプチギフトも作らせて頂きました。
ただ周りばかり幸せになってしまい、終いには過去のいじめの事や、不幸に感じたことのない母子家庭の事や色々と不幸せに感じてしまい、ふと「そう言えば自分の人生が安定したことなんてなかった」と思ってしまいました。
周りは恋人がいるのに私にはいないので、街コンのイベントに参加しようとしても中止になってしまったり、父が倒れても辛うじて生きててくれただけで嬉しいはずなのに、入院費として私が将来自分のお菓子のお店を出したいと貯めていたお金を半分出したことも、ストレスに感じてしまいました。
自分がどんどん嫌な人間になっていきます。
そう思うようになってから周りと違う世界の人間のように感じてしまって、ストレスで円形脱毛になってしまいました。
自分も幸せになりたいです。
周りに相談しても不幸自慢かと思われるのも怖くて、藁に縋る思いで相談させて頂きました。
拙い文章で申し訳ないですが、回答よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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大事なのは「今」
今の状況が「ずっとこのまま」ということはありません。仏教では「諸行無常」として形のあるものもないものも縁にしたがい移ろい変わると説かれます。
アンジー様が今まで不幸と感じなかったものを感じるように変わったように、今の状況や感情もやがてまた変わっていくものでしょう。
しかし大事なのは「今」どうなのかということだと思います。やがて変わっていくことに希望を見出せるとしても、「今」この辛さ苦しさとどう向き合えるかということが、人間の幸不幸の感覚に大きな影響を及ぼすものです。
辛さ苦しさがあるから不幸、ないから幸せ、ということではなく、辛さ苦しさがあったとしてもそれと向き合えて自分がいただいたご縁として認めることができるならば、そこには単に思い通りに事が進むだけで得られる喜びではなく、自分の思いを超えて本当に満足していける深い感動があるのではないでしょうか。
今、アンジー様がお抱えの状況は厳しいものであるのでしょう。ですから「自分がどんどん嫌な人間になっていきます。」とおっしゃるように、どんどんご自身の中で嫌な感情が湧き上がって来てしまうのに無理はないと思います。そのためにご自身を責める必要はありません。
その感情が自分で起こしたものならあなたが責めにあって当然かもしれませんが、感情は起きるものです。どんな気持ちが湧いて起こって来てもそれは自分の思いを超えた仕方のない事です。ですからどんな気持ちもそれはそれでいいのですよ。
気持ちも境遇も、私たちがいただくご縁というものは全て思い通りにはなりません。しかし仏陀釈尊が目覚めたのは平等ないのちです。どこにおいて平等と言えるかというと、全ての人間は縁によって生まれ、縁によって生き、縁によって死んでいくということだけです。
後のその縁はバラバラです。生まれつき裕福な人もいれば、途中から転落人生をたどる人もいて色んなご縁があります。
平等な事はその縁とどのような態度で向き合うかという自由が人間には与えられているのみです。その態度が思い通りに現実の形になるかどうかはこれまた思い通りになりません。
しかし、ご縁に対して主体性を失わずに態度選択をしていける人生には不幸と呼びたくなるものはあっても不満足はないでしょう。「これが私だ、これが私の人生だ」とご縁を認めるところにこそ満足という本当の幸せがあるのではないでしょうか。
そんな深く考えないで下さい。
本当に大変なのですねぇ。吉武先生もおっしゃっておられる様に仏教の教えに「諸行無常」がございますが、これは私たちが生かさせて頂いている中において全てのものが変化するという事で留まる事がないという事でございます。幸せだとか不幸だとかいう事も愚痴がこぼれるという事は、宿縁により遭わせて頂いた事だと思います。幸せだから良い人生が送れるという事でなく、浄土真宗の教えは苦しみの中において、少しでも聴聞(聴かせて頂く事)が大切だという事です。 合掌