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伝わらないときの対処法

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早速質問させていただきます。

ハスノハで回答をして下さっているお坊様方は、アドバイスが相手に伝わらないときに、どのようにそのもどかしさからくる苦しみから心を放していらっしゃいますか?

私には、自分の子がクラスでいじめられているとよく話すママ友がいます。ママ友のお子さんは、私の子よりも2学年上で小学校高学年の男の子なので、私の子が助けに行くことは難しいのですが、話がいじめられた話だけで終わることが、いつも自分のことのように悔しく感じるのです。

子どものSOSが出ているのに、「思春期の集団ってそういうものよねえ」という結論で終わるママ友がもどかしいです。

どうして日付を記した文書等で担任や管理職の先生方に助けを求めないのか?子どもが「SOSを出したら大人たちが応じた」という実感が持てるまで行動しないのか?
私なら文書も複写も作って学校や児童相談所に送って助けを求めるのに!
と、いじめられているその子と何年もの付き合いなだけにかわいそうになります。

でも、立ち止まって考えると、私は「ママ友の話」という口から出た言葉にとらわれていて、事実に即して考えているかは怪しいわけです。ほんとうは、いじめられた話の前に友達との対等なトラブルがあったかもしれないし、本当にあったことがゆがめられて私に伝わり、私は真実でないことでかっかとしているのかもしれません。
でも、言葉として、エピソードとして聞いてしまうと、そこに囚われて、あとあとまで「なんだかなあ、くやしいなあ」と思いを引きずってしまう。

ハスノハのお坊様たちは、アドバイスが全く伝わらないときや、逆切れのような反応があることもしばしばあると思います。そんなときに、どうやって切り替えて、ご自分の落ち着いた日常に戻られますか?

もしくは、私が「伝わらないなら切り替えて自分の生活を大事にしよう」と思っていること自体が間違いで、私自身がママ友(その子)のSOSにもっと干渉・行動すべきなんだろうか…。

お坊様方は、そだね~の「共感」で済むときと、「アドバイス」もっというと「叱る」(←うまい表現が見つかりませんが、アドバイスよりももっと熱く厳しい気持ち)を、どう質問文を読み解いて回答の姿勢とされるのか、熱い思いが全く相手に届いてないときにどう普段のご自分に戻られるのか、厚かましいですが伺いたいです。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人の心に縁の鍬入れ、種まき、花咲かせ、身を実らせる。

戦争やめよーねー。
そだね~。
ケンカはやめようねー。
そだねー。
相手を変えようとしても変わらないよねー。
そだねー。
相手にいいこと言っても伝わらない時ってあるよねー。
そだねー。
いっそのこと言わない方がいいかなー。
…。

そうなるとここでの回答も無くなりますね。
私は縁加え程度にしています。
いくら言っても聞く耳アラジンの方は何を言ってもウマの耳に念仏です。
ただし、言うだけ言っておけば脳ミソは受信していますから、いつの日か花カッパのように花が咲くこともあるかもしれません。
あと、もう少し物事を単純に考えてみますと、人がそれをやらないのはその人にとってもっとやらなくちゃいけないことがあるというだけだったりします。
「ついでにモノを頼む人」というのはどこの業界でも嫌われるものです。
スーパーのレジ打ちさんにその業務以外の事を頼むと、後ろにお客様もおられますし「ご勘弁を」という風になるように、頼むべき人にはそれを頼めるタイミングというものがあります。
あなた自身も、今それをやりたい、成し遂げたい、こうすればいいのに、と思っておられます。ところがそれがうまくいかないと当然もどかしいですよね。
やるべきことはやった方がイイのです。
遠慮せずに可能な派に出助けてあげるべきです。

人間というのはホントに自分のコトしかない人が多いものです。
私は電話相談もやりますが、何十分と話していてワカランチンの方はガツンとブチ切れることもあります。
「アンタがやっているのは、テメーのことだ。こっちの話を聞いてない。自分をやっているだけだ。聞く気がねぇなら他へ行け。」とガッツリリアル・ガチ説教が始まる場合もございます。お悩み相談を愚痴の聞き入れセンターとでも思っている不届き者はガチで切り捨てます。
そのくらい言わないと人間のエゴって、そのエゴ自身に向き合わないからです。

エゴの強い人は我を取り上げてあげないと一生エゴイストです。
あまりにもエゴイスト過ぎて人の話すら聞きません。
叱った方がイイ場合と、ヨイショした方がイイ場合がありましょう。
本人が本当にそれを望んでいるかどうか。
こちらは良かれと思ってあれこれ言っても本人は相談した時点でもう半分以上スッキリしているもんです。
もっとピンチ・SOS・ヤベー人はこんな悠長に文字入力なんてしてませんでしょ。(笑)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答いただくご縁に感謝しています。

丹下覚元 様

縁加えという言葉がしっくりきました。

私にいじめの話をするのは、「自分ならこうするのに」という私の意見を聞いて気が済むからかもしれないなと、今までの会話を思い返しました。私を選んで話しているなら、何か私の性格とか考え方とか話し方で、その人が聞きたいことが含まれているなら、「狸田が言いそうなことを、いつでもまっすぐ言う」、言い続けることが大事なのかなと思いました。

そして、私も当事者意識を持つことに気づかせていただきました。「私ならこうするのに」で終わらず、「いつどこで誰にどういじめられたの?」と私が確認して、第三者ながらもメモを残しておくこと、「あなたのことを話半分に聞いてないよ」という姿勢でいること。
もしかしたらそういう、「無駄になるかもしれないけどやるだけはやった」という行動が、私をもどかしさから切り替えさせてくれるのかもと思いました。

「あなたいつもそうだよね、愚痴だけ言って終わるよね、だから私もいつもほんとうには相手にしてないの」とならないように、言葉がちゃんと機能するようにやり取りしてみようと思いました。

ありがとうございます。

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