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生きていれば何とかなる

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良く生きていればなんとかなるとか、人生に無駄な事などひとつもないとか、なんとかなる 大丈夫しんぱいするな なんとかなると言われますが、それは本当なのでしょうか?。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ほぼ、本当です。心は無常だから。

「生きていれば何とかなる」と言う場合、言われたその時には何か悩んでいるわけですよね。
つまり、その時の心には悩みが発生している。
しかし、仏教では心は無常であると考えます。
今の心が悩んでいても、永遠に心が同じ悩みを維持することなど、ありえないのです。
トイレでおしりを拭く瞬間には、トイレットペーパーを千切ることしか考えていない。
心から悩みは消えているはず。
しかし、トイレから出たらまた悩みを思い出して、あたかもずっと悩んでいたかのように錯覚しているだけです。
悩みが解決していない人でさえ、24時間悩んではいないはず。「ずっと悩んでいる、悩みがずっと消えない」と錯覚しているだけなのです。
悩みのない心を月、悩みを雲に例えてみましょう。
雲は月を隠せても、月を壊せはしないのです。
生きていれば、必ず、しかも、実は数秒~数分後には、雲の隙間から月が顔を出すのです。
しかし、自分で自分の月を見ようとせず、雲ばかり見ようとする人もいます。
その場合、生きても生きても自分でわざと悩んでいるので、その人は「なんとかなる」と思えない。残念なことですね。
悩みがあってもご飯はおいしいはずなのに、味わうことも忘れて雲ばかり見てしまうのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

無駄なこと言います

「大丈夫だ!!なんとかなる!」
ヤレヤレ、ホントかいな。q( ˘ω˘ )p
こっちは本当に困ってるのに…。
こんにちは。ネットで人気になった般若心経の超訳「スゲエ楽になる方法を知りてぇか?」で大丈夫どころか❝スゲエ❞イラッときた、丹下ともうします。
そんなんで幸せになれりゃー、人生スゲエ楽ですわ。
真剣に悩んでいる時にまともなアドバイスも無しに「心配すんななんとかなる」「大丈夫ダイジョブ?」本当に困っている人にとっては逆にイラッとしますよぇ。q( ˘ω˘ )pヤレヤレこのご時世にそんな言葉を言う人なんているんですかいな。仮にいたとしてもそんなこと言う奴の気がしれませんねぇ。(前フリ)
でもですねぇ、それで本当に大丈夫になれる人間もちゃんといるんですから、その人たちは超❝スゲエ❞幸せな人たちです。そう思い込む力こそ、持つべきかもしれませんねぇ。
さてさて、今このメールが来るまでは、どうでした?
あなたの心配とはよそに全然大丈夫だったでしょう?なんとかなってたでしょう?
それが答えです。
だから大丈夫です!心配すんな!なんとかなる!

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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