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何が正解なのか分かりません。

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有り難し有り難し 17

自分がしていることが人として最低なことであるのは重々承知しておりますが、どうかご回答頂きたいです。よろしくお願いします。

昨日、約1年付き合っていた彼氏とお別れをしました。理由は他の人との間で気持ちが揺らいでしまったからです。

彼氏はあまり頼り甲斐がない人で、その部分が私にとって悩みの種になることが多々ありました。
ですが彼といるのは本当に居心地がよく安心でき、また彼以上に私を想ってくれる人はいないだろうなと感じており、これまでお付き合いを続けていました。

しかし、昨年の秋に知り合った人に年末から気持ちが揺らいでしまい、事実上二股のような関係を築いてしまいました。
何度も新たに出会った彼に別れを告げたのですが、話し合う度に簡単に決心が揺らぎ、ダラダラと関係を続けて今に至ります。

これまでのことを振り返って、毎回決心が揺らいでしまうのなら私はきっと新たに出会った彼と一緒にいるのがいいのかもしれないと感じるようになりました。
そのため昨日付き合っていた彼にお別れを告げたのですが、色んな感情がごった返してしまい、これで良かったのか何が正解だったのか分からず、頭が混乱してしまっています。

私は彼と別れて新たな人のところにいってもいいのでしょうか?
それとも、新鮮さだけで新たな人に惹かれているだけで彼のことを大切にするべきだったのでしょうか。

現在彼氏と別れた状態ですが、新たに出会った方にも別れをつげて一度全てまっさらにするべきなのかも悩んでいます。

全て自分がまいた種であると承知していますが、助言をいただけると幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人を好きになるのは自分が自分の意思でやってない

町に出てみましょう。
イケメンから非イケメン、モテ男から非モテ男、誰もがうらやむ素敵な人もいればブサイク丹下まで色んな男性が歩いています。
どのくらいいるのでしょう。
♫~
「35億。」
…だそうで。
その道行く人たちをみていてもトキメク人とトキメカナイ人がいるでしょう。
人を好きになるならないは自分が自分のルールや決め事で好きになっているわけではありません。
深く考えずに単純にオス・メス、好きか嫌いか、モエるかモエないかで考えましょう。
本能が知っています。
後は個人のそれぞれの条件付けです。
超イケメンで性格がすんごくいいのに超ビンボーで仕事もしない人は❝ヒモ❞です。
養ってかなければいけません。
顔がそこそこで経済力もそこそこで超~性格悪くて、子供には優しいけど一生そこそこ人もいます。
人は安定感を求めると言いますが、生活はボロボロなのに異性に甘えてそれで安定感を得ている女性もいます。
人生は長いです。
本心に忠実に生きたらいいと思います。
だからと言って、どっちも捨てがたい、モッタイナイで二人の男性と付き合っていたらそりゃペケですわいの。サイテー、ダメ、ゼッタイ。
ぶっちゃけ、あなたの文面からすると新しい男の方がモエる感じがぷんぷんします。
こういう恋愛における答えって、人から回答をもらうものじゃないと思います。
何故でしょうか。
何故かって。
知らねーモン、そいつら。(笑)
(._.)会ったことねーし。
その割にこういう質問が多いのですが、ぶっちゃけ本音は、知らねーよ。(笑)です。だって、合ったことないんだもーん、情報不足だし。みんな主観だし。
…なんてことを言うと冷たい男だと言われちゃいますから、言いませんが。(言ってるわい)
結論
本心ではちゃんとわかっているはずです。グサリ
ぜいたくな悩みですわいの。
今取っている行動が今のあなたの真実です。
どっちも別れたくないということを今やっている。それがぶっちゃけ、今の答えなのです。
順序を重んじる人はとっくに別れて誠実な生き方をしているでしょうが。
よって、その頼りない彼を捨てて彼を傷つけないように上手に別れて新しい彼と楽しむが吉かと。
その内、ある時に、あーアタシ本当に自分の事っきゃなかったなーって思える日が来たら、そこからあなたの人生の見つめなおし、自我との向き合いという仏教との出会いの始まりです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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