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心を丈夫にするにはどうすればよいでしょうか

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お世話になります。
今日は、心を丈夫にする方法を伺いたくてまいりました。

最近、些細なことで心がひどく落ち込みます。
悩みは自分の能力不足や人間関係なのですが、それまでどんなに良い結果を残そうとも、今回はダメなんじゃないかと不安になり、気分が落ち込んでいきます。

若いころは気持ちの切り替えがすぐできたり、ポジティブに考え直したりできたのですが、最近はくよくよと悩んでしまい、体調も崩しがちになってしまいました。

年齢的にも更年期障害かもしれないとは思うのですが、それもポジティブな人には症状が出にくいと聞きます。心を丈夫にするにはどうすればよいのでしょうか。ご教授ください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心を強くする方法

禅的プラス思考講座を開いておりました丹下です。
最高のプラス思考・ポジティブ思考は物事を見たり聞いたりする時に「思考」が入り込まなくなることです。人間はものごとに接する時に思考を割り込ませているのです。
超高速増殖割り込み思考。
多くの人はまさか自分が今見たり聞いたりすることに対して思考を介入させているとは思いもよりませんし、気づきもしません。
こういう話をしても多くの人は今思考を割り込ませていることに気づきもしません。
だから坐禅や瞑想をして自分を見つめる必要があるのです。
坐禅や瞑想を知らない人は何故あんな意味のなさそうなことをするのだろうと思われるでしょうが、思考の立ち上がり自体を気づけなかったならば今後も一生自分の心とは切っても切れない関係なのに、どうして自分の心から救われることがありましょうか。
自分自身の事なのにです。
自分の心というものを、持ち主である自分自身がよくわかっていなかったなら取り扱いを知らずに原発を家庭内で子供たちにいじらせているようなものです。
だからこそ仏教というものがあるのです。
ほとけ、釈迦、仏陀、覚者、阿羅漢と言われる人たちは、みな自己を明らかにされた人たちです。誰でも心を強くしたいものでしょう。
心を強くするには、事実を事実の通りに見る力を持つことです。
思考・自分の思ったこと・ネガティブな思いを事実に割り込ませずにものを見るとき、そこに苦しみも問題も何も生じません。
人間の脳は自身の思考によってトラブルが生じます。
思考は心という庭で暴れまわる首輪をしない暴れ犬のようなものです。
自分自身の心のなかで暴れまわる思いという猛犬を黙らせるには、その思考自身に咬まれないようにすることです。
その為には、思考が発生した時において反応したり、転ぜられたり、引き回されないように思考ではなく「事実の世界」をアドレスとすることです。
思考をアドレスとしている人たちは思考の世界で自分の思ったことが真実であると錯覚するのです。それは顛倒夢想・妄想の世界。
事実をアドレスとする人間は決してブレません。
思考は事実を脚色、捏造、改ざんします。
事実を事実の通りに処する・過ごすということは思考の介入がなされませんから安らかなのです。非思量・不思量・不識という禅語があります。
これらはノン・シンキングマインド=事実マインドのことです。ご参究のほどを。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のご回答をありがとうございます。思考に振り回されてきた期間が長い私にとって、思考を挟まず事実のみを受け止める、という練習がまず必要だと思いました。これまでやったことがありませんでしたが、瞑想もやってみようと思います。丁寧なご説明をありがとうございました。

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