自分が死んでも誰も困らないのではないかと考えるのがつらい
常日頃、気分が落ち込んでいる時は勿論の事、楽しい事をしている最中などでも「自分が死んでも誰も困らない」「むしろ自分が生きているよりも生きていない方がみんなはメリットがある」「だから自分はみんなから死んでもいいと思われても仕方がないし、殺されても文句が言えない」と考えてしまいます。
これを両親や知人(友人と言うのは相手に失礼な気がするのです)に言うと「死ぬだなんて言うな」「貴方に死なれると哀しい」などと言われます。泣きながら言われた事もありました。それが嘘だとは思いません。ですが客観的な認識として、自分がいなければ自分という存在がかけている負担(肉体的・精神的なものから金銭的なものまですべて)が存在しなくなります。自分に関わっている時間やリソースをもっと他の人やものに費やせる訳です。社会的に見れば切って捨てるべき人材です。
また、私が死ぬとメリットがあると考える理由のひとつに「自分が関わって起きてしまう出来事を阻止できる」事が挙げられます。例えば誰かが機嫌を悪くしたり、電車が遅延したりした際に、自分が関わっているという証拠も無ければ、関わっていないという証拠も無い訳ですから、逆説的に自分が全ての主犯であり死ぬべきであるとも考えられるわけです。
繰り返しになりますが、自分が死んでも誰も困らない筈です。例えばこの書き込みは自分がいなければ投稿されることはありませんが、なかったところで誰の得にもならないのです。
これは現実的な見方であり、自分はきわめて冷静に・理性的に判断していると思います。
しかし、どうにもそういうことを考えると、当然であるという認識と同時に酷い寂しさに襲われるのです。
自業自得なのはわかっていますが、毎日のように考えてしまい辛いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いそがずに
拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃるようなお考えは若い時には陥りやすい考えかと思います。
私も以前そのように考えたこともありますし、それによって何でもイヤになったり何でも投げやりになり自暴自棄になったこともあります。ただそれはやはり若気の至りでもあるのです。
私もそんなに経験豊富ではありませんから人にとやかく申し上げるほどでもありませんけれども、私やあなたが思うほどにものごとはそう単純ではありません。
私もあなたも様々な関係性や目には見えなくても多くのご縁の中で存在しています。そして次から次へと無数の原因や経過や結果を繰り返しながら営まれています。
ですから単純にあなたがいなくなっても何にも変わらない、誰も困らない悲しみもしない、ということはありません。
想像する以上にあなたは様々なものごとや人々とつながりながらお互いに影響しあいながら生きています。
ですのでものごとはそう簡単ではないのです。
もしもあなたがそう単純にお考えならばこれからの人生の中でその答えを自分自身で導きだしてみてください。沢山の方々との交流や沢山の経験を通して、辛い事苦しい事喜びや楽しみを人々と分かち合いながらその経緯を冷静に見つめ続けてみて、何度も何度も反芻しながらその答えを見つけていってみてください。
おそらくあなたが30代になると人への見方が変わってきます。
より深い信頼関係を築くこともあれば、疑心暗鬼になり誰も信じることができなくなることも起こります。それでもその状況は一過程に過ぎません。
また40代になればより確信の持てることや真実を求める心が育ってくるかもしれません。
そして50代には真に信に足りうる自己を新たに発見するかもしれませんし、60代で人生にとって本当に大切なことを実感し、その重厚な構造を理解するかもしれません。
いずれにせよ答えを急ぐ必要はありません。
あなたはあなたが思う以上に多くのものごととのつながりの中で育まれて守られているのです。そしてあなたの存在はとても重要なのです。
どうかこれからの人生の中であなた自身が様々な方々との交流や経験を通してあなたの存在やあなたのアイデンティティを一つ一つ発見していってくださいね!
あなたを心から応援しています!あなたはこれからも成長し続けるのですからね。
色んな見方を試してみましょう
大島新島さまはじめまして。
色々と考えてしまう性分で、だからこそ苦しいのかなと受け取りました。
私も同じく色々考えてしまう性分なので、あなたの表現を参考に少しいじわるな書き方をさせて頂きます。
客観的な認識として、あなたがいなければあなたという存在が将来生み出しうる資源(人間関係や税金、アイデアや商品などの創作物まですべて)が存在しなくなります。あなたに関わっている時間やリソースは将来の可能性のための投資なので替えが利きません。どの人材にもそういった可能性が捨てきれない以上、社会の多様性と柔軟性、ひいては存続可能性を高めるためにも「切って捨てる」などという発想は捨てるべきです。
あなたが死ぬとデメリットがあると考える理由のひとつに、「あなたが関わって起きてしまう良い出来事がなくなってしまう」ことが挙げられます。例えば誰かが笑ったり、幸せになったり、平和が訪れた際に、あなたが関わっているという証拠もなければ、関わっていないという証拠もないわけですから、逆説的にあなたが全ての発端であり生かされるべきであるとも考えられるわけです。
繰り返しになりますが、あなたが生きていたら誰かが助かっているはずです。例えばこの書き込みはあなたがいなければ投稿されることはありませんが、なかったら私がこんなに思考を巡らし、勉強することはなかったからです。これは現実的?な見方であり、私は極めて冷静に・理性的?に判断していると思います。
・・・どうでしょうか?
論法は全く同じですが、全く逆のことも言えてしまいます。
どちらが本当でしょうか?(私は私の表現を「真実」と捉えていますが)
考えることは悪いことだとは思いません。
しかし、硬直した思考は悪循環の入り口です。
ときどき、裏側から見てみたり、逆さから見てみたり、眼鏡を通してみたり、色々と試してみてはいかがでしょうか?
心から感じたことを大切に
今、話題の池上彰さん推奨の「君たちはどういきるか」は、62年前中学1年生の時、先生から薦められて読み感動し、私の心の拠り所としており、昨年改めて購読しました。その中で「人間は、常に自分の体験から出発して正直に考えていけ。そして、人間の立派さを魂で知り、心の底から立派な人間になりたいと思うことだ」と記述されていました。また、この本の著者の「人間の尊さを守ろう」も購読しました。人間の自由、歴史と社会、戦争と平和など今日の時代に生きていく人間にとって、大切な問題について易しく解説されおり、感銘を受けました。なお、上記の本からすると、貴女が心に感じる苦しみやつらさをみじめと感じ、あわれと認めることは偉大であると思いました。二冊の本を講読され、人間の尊さを知り、心に感じたことを大切にして、心を広め、人間として立派に成長され、苦しみから脱さられんことを祈願いたします。、
(追記)
「君たちはどう生きるか」を、僧侶になって講読し感じたことは、子供向けの仏教の本と思いました。
私達もあまり知らない、現在の仏像がガンダーラが発生であり、日本人の先祖は、遠い外国の文物でも、優れた物にはこころから感心して、それを取り入れ、日本の文明をぐんぐん高めていったことが説明されています。まさに、現在世界に誇る文化・文明を築いている仏教国、日本人の心のルーツについて述べられていると思いました。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
無意識に「人生はこれでおしまいだ」と思い込んでいたのかもしれません。