小学生女子殺害事件で思ったこと。
どうして、痛ましい事件というものは無くならないのでしょう?
「人殺し」のような大罪人は、永遠に地獄から出れないようになれば、
この世に大悪人などいなくなって平和な世の中が実現するのに・・・。
殺人事件などが起きるのは、
現代社会がそれだけ闇を帯びているからで、
「そんな社会の1構成人である自分にも無関係ではない」
そんな風に思って、生き方を省み、
自分にできることを日々実践していく・・・
そうすれば、真に平和な世の中というものを
実現できるでしょうか?
信念や強さが弱い。 平和ボケしてしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
闇はどこにあるか
本当に痛ましい事件が起きるたびに胸がつまり、考えさせられる事が多々あります。この度の事件も悲しく痛ましいものであり、言葉も上手く出てきません。
さて、現代社会が闇を帯びているのは間違いがないでしょうが、では人類誕生以来で闇を帯びていない時代はあったでしょうか。殺人のない時代はあったでしょうか。少なくとも近年の日本においては殺人事件被害者数は減少しております。
http://nenji-toukei.com/n/kiji/10042/殺人事件被害者数
私たちが勘違いしてはならないのは時代が闇を帯びているのではなく、私が闇を帯びているのだという事。
私が善の立場に立って私のモノサシで世の在り方を問うのではなく、私のモノサシ・私の存在こそが問われなければならないという事です。
時代社会は変化し、経済は成長し、法整備も進み、社会環境も整い…と、ずっとある意味で社会は良くなっているはずです。
しかしいっこうに人々が平和で幸せにならないのだとしたら、いよいよ私たちは気づかなければなりません。
時代社会のでいではないのだと。
そして
社気が良くなっても私が幸せになるわけではないのだと。
その時、いよいよこの「私」こそが問題となる仏教の可能性が大きく広がっているのではないかといち仏教徒としては感じます。
真に平和な世の中というものが実現できるのかどうかは分かりませんが、実現したいとの願いを建て、願いからはじまる現実の歩みを生み出さない事には何も始まりません。
その歩みの第一歩は社会を問うことではなく、社会を通じてこの私が問われることだと思います。
縁さえ調えばどんなふるまいをもする闇を抱えているのがこの私です。闇は光に照らされないと闇だと分かりません。
仏法の智慧の光が広まらんことを。いや、既に照らし続けている光により一人ひとりが闇を自覚することを願い、まずこの私こそが仏法に私の身の事実を聞いていきたいものです。
殺人鬼が心を入れ替えるチャンス
地獄の罪人も死ねば人間に生まれかわる可能性があります。
動物も死ねば人間に生まれかわる可能性があります。
人間界は、仏教に出会えるチャンスもあるし、心を入れ替えるチャンスもあります。
つまり、人間よりもずっと野蛮な生きものから生まれかわって人間になった人もいるのです。
皆が人間らしい人間ではないのです。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
じょじょ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
真に平和な世の中の実現へと向けては、やはり、何より心を陶冶していくことに尽きて参ります。
何もしなければ、無明(根本的な無知)による煩悩の赴くままにて、痛ましい出来事が絶えることはありません。
仏教では、仏教を修習することにて、心を清らかに善くに陶冶していくことを目指して参ります。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
諸々の悪い行いをなさずに、善い行いに努め励みて、自ら心を浄らかにすること、これが諸々の仏の教えである。
ということとなります。
具体的な実践は、しっかりと仏教を学び修していく中にて調えて参りたいものとなります。
悪い結果へと至ってしまっている因縁(原因と条件)を、仏教によりて、善い結果へと至る因縁へと変えることができていければ、大罪人であっても、どのような者であっても、善い結果が望めるものとなります。
皆が清い、善き仏道の流れに乗ることができますように、しっかりと私たちも努めて参りたいと存じます。
川口英俊 合掌