自分がない
よろしくお願いします。
最近、サラバという本を読みました。自分の軸、芯を持つという話だとわたしは解釈しました。でも、わたしは芯がありません。
まわりの意見に流され、まわりが良しとすることを良しとして。どう思う?などの質問には、どの答えがこの人にとって正解だろうかを考えてしまいます。本に感銘を受け、でも自分の無さを目の当たりにして今、とてもよくわからない心境です。自分が無いと言いながら、たまにある自分の意見を否定されるとものすごく憤慨します。よく分かりません。きっと自分を保ち、自分の人生だと思って生きれば、まわりの意見に惑わされたり、まわりの幸せを喜べない嫌な人間にはならないのだと思います。結婚して、子どもを持ちたい。安定した精神がほしい。どれも今は叶っていません。具体的にわたしは何をすれば良いのでしょうか。どうすれば、自分が分かり、保てるのでしょうか。それこそ、自分で考えるのが大事かと思いますが、今はよく分かりません。
駄文ですみません。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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次の一歩。
周りの意見に流されっぱなしだったとしても、それでも様々な「出会い」を通して
歩んできた道のりが、みむさんご自身の「芯」となるのではないでしょうか。
様々な人との出会い、書物との出会い、空間との出会い、特別な瞬間との出会い。
外からくる世界をみむさんが
どのように感じていらっしゃるのか
どのように受け止めてきたか
それらをたとえば一年あるいは数年ごとに振り返った時
「この一年、あるいは数年、自分はこのように生きた。」と感じれるなら、
その軌跡が知らず知らずのうちにご自身の芯となって実感されているのだと信じています。
それはみむさんの思い描くような芯とは限らないかもしれません。
でもだからこそ面白い。
だからこそ前に進もうと思えるんだと、思っています。
次は何が起こるんだろう、と。
私はたとえ自分の意見が言えなくても
それでも「次の一歩」を進めることができたなら
「俺の勝ち」だと思うことにしています。
立ち止まったとしても「次の一歩」進めたことが
すなわち自分の「芯」を現わしているような気がするからです。
はっきり言って情けない一歩もあるかもしれないですが
それでも
一歩は一歩です。
たとえ「今」この瞬間、憤慨しても、他人の幸せを喜べなくても、惑わされても
もう次の瞬間、次の「今」が来ていますから。
そこから一歩を、踏み出していくことができたなら。
そこに芯が通っているのではないでしょうか。
そのように私は信じています。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
たとえ今、自分が見えなくてもここまで自分は一歩一歩、進み下がりながら確実に歩いて来たんだなと思わされました。
来年、再来年、振り返った時に少しでも自分を感じれたらいいなと思いました。感謝します。ありがとうございました。