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自分との向き合い方、親との接し方

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小さい頃からメンタル面が弱いです。
今でも、成人男性や酔っ払っている人が非常に怖かったり、自分に自信がとにかく持てず、私自身のことを褒められてもしっくりきません。
丁寧に説明されると嬉しいことには嬉しいのですが、心の隅では「過剰評価だ」と感じてしまいます。

それらについてネットを中心に調べてみたところ、親からの影響だとか、愛情不足だとか、幼い頃に褒められてないだとか……そういった言葉が様々な場所で「あなたは悪くありません」と一緒に、頻繁に書かれていました。
確かに、親に褒められたことを思い出そうとしても出てきませんし、抱きしめられたり頭を撫でてもらったことも思い出せません。

けれど、10代の頃こそ親に愛されていないと思い込んでいましたが、今現在では「あれが両親の言うところの愛情だったのかもしれない」と思い当たる出来事も数個あります。
思っていたように育児がうまくいかず親も苦しかったのだろう、と、親へある程度の共感や理解もできるようになりました。

一方、考えれば考えるほど、どうしてあんなことができたのかなぁと不思議に思ってしまいます。
向こうが「愛情だ」と言っていても、私からすれば苦痛でしかありませんでした。
それでも、きっと両親は嘘をついていなくて、本気で私と弟を愛しているのだと思います。

頭では「愛されていた」とわかっていますが、完全に割り切れているわけではありません。
親に裏切られたこと、傷つけられたこと。それらを忘れることもできなければ、許すこともできそうにありません。かといって、縁を切るほど憎みきれているわけでもありません。

本題に戻りますが、
私の持っているトラウマや自己肯定感の低さ、希死念慮、そういったものを全部親のせいにしても良いのでしょうか。
みんなの言う通り、私の努力不足や能力不足だったり私が怠けているだけではないのでしょうか。

また、愛憎半ばな親にはどう接すれば心身穏やかに暮らすことができるでしょうか。
実家から出るメリットが「親と離れられる」しか思いつかず、且つそれが(少なくとも今は)特別大きなメリットでもないため、心構えなどを中心にお言葉をいただけるとありがたいです。

2022年9月15日 5:09

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事実はいつも新しいとれたて新鮮直送なのにあなたの反応は? 

家庭というものが人間の個人主義と個人主義のまぜこぜの場でございますので相手のワタクシ性も公的、オフィシャル、パブリックなものとしてマトリックス並みにイナバウアーがわしをすることを会得しておきませんと毒親気質の家庭では親につぶされてしまいます。
単に「スゲーおや」「特異なおや」「独特な親」というぐらいに見ておくべきでしょう。大正・昭和・平成で環境も状況も流行ったものも教育も価値観もみんなちがうんだもんね。
どんな仲の良い家族であっても夫婦、親子あってもそれぞれの個性特性の違いを意識しておきませんと相手に自分ルールを押し付けるようになる。
特に家族は「何でうちの子なのにこれがわからないんだ?」という押しつけが起こりやすいものです。お釈迦さまだってそうだったわけでしょうに。現代人ならばなおさらのこと。
出家というのは「家」を出ずると記しますが、この家とは何ザマショ。まさか人間それ自分の事だとは思っとらんのですよ。
アタシルール、自分ルール、マイルール。そしてあんたも自分ルール。今もこの話をカーちゃん、親のせいにしてるけんど、その負の反応や責任転嫁思考だってあなた独自の「今の」「令和4年度アナタ」の防衛反応です。
六道輪廻とか地獄だ天国だのというのはどこにあるかというと、あなたがカーちゃんに何か言われた直後にあるのよ。(´👄`*)
自分がそこの境地、その心理、その心情に自ら赴いていることを知らんでしょう。
その自覚なき心の転ぜられをこそ本来、輪廻というのです。こころが転ぜられること。
相手が母親であろうが父親であろうがニュースだろうがネット情報だろうがこの見ず知らずの謎の坊さんからの言葉だろうが、その事を受けて直後にあなたが向かう心理の方向、行き先、目的地が「あなた自身が本当にどんと構えて何でもないようになること」があなたの中の秦のアナタなのです。不動心。図太い自己。堂々たる自己。独坐大雄峰。
人間をもっと勉強することです。そうするとあなたの親御さんの育った歴史、状況、培われた心理、あなた自身の育ち、縁、因縁、作用がわかる。そして何より授かりに気づくこと。恵、恩恵を感じられる心を持つこと。出来事をキャッチした上での心理の自由さ、観自在なることの受け止めを身につける。
「毎回、新しい出来事しかこの世には存在しない」のにどうして俺はいつも同じ反応ばかり?これでいいの?と問う。

2022年9月15日 14:26
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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