世の中に疲れました
世の中、不安を煽り、人を商品として見ているのではと思います。
他の世代は分かりませんが、
私と同じ30代かそれより下の世代を見たり、自分の経験から感じたりしたしたことです。
私は私立の中高一貫校で過ごしました。
中学入学当初の学年主任の先生は、
「受け入れた以上、絶対に退学者を出さない」という気持ちでやっていたようです。ところが、周りの先生は、「退学者を出さないと、生徒がだらけてしまう。」、「早めに判断して、公立に行かせた方が生徒のためだ。」というのを耳にしました。ちなみに、西日本は、公立よりも私立の方が進学実績が高いところが多いです。
就活の時に、私立学校も受け、内定を頂きましたが、私が通っていた私立学校と同じ考えで嫌悪感を抱き、公立学校に就職しました。
何だか、生徒を商品として考えているんだなと感じてしまいました。高校の監督が中学校に出向き勧誘したり、大学の監督が高校に出向き勧誘したりするのを見ても、人を商品として見ているのかと思ってしまいます。もちろん、しっかりとした理念を持って教育を行っているところもあります。
最近では、婚活市場も盛んになってきました。私も、独り身で不安に思って、婚活イベントに参加したことがあります。4月から復職を目指していましたが、3月に腸閉塞で入院してしまい、婚活イベントに参加しても相手女性に失礼だと思い、婚活はやっていません。本を読んだり、どこかに行ったり、今しかできないことをやっています。もちろん、結婚相談所や婚活イベントの業者の中にも、しっかりとした理念を持って誠実に対応しているところはあると思います。
親戚のおばさんや母親から、「相手をよく見て選びなさいよ」、「いい人がいたら、パッと掴みなさいよ」と言います。身内だからそういう言い方になるのだと思いますが、どこか人を商品として見ているようで違和感を感じます。私の相手ということは、相手は女性です。同じ女性の立場としてどのように思うのだろうかと思います。
他の男性はどうか分かりませんが、心ある男性なら相手を支えられる自信がなければ、結婚に踏み切らないと思います。結婚はそれだけ重いものだと思いますので、益々踏み切れません。困難があるから、それだけ楽しみもあります。
社会改革するには、人の不安を除かねばなりませんが、嘆いても仕方ないので、自分で自分を認め、輝きたいです。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人を商品として?反対に考えては?
人を商品として見ている?
むしろ反対に、商品には、人のような価値があるのです。
たとえば、お魚屋さんに商品(お魚)がなければ、私達は、自分で川や海に出かけて魚を採るという労力を払う必要があります。
商売の根本は物々交換です。
餅は餅屋と言います。我が家に和菓子職人がいなくても、お店で和菓子を買える。
商品には、職人という人間の価値が込められているのです。
仏教では、一切は苦であると言います。
苦があるから、生きものは、苦が少ない(弱い)方を選ぶ・動くのです。
息を止めるより吐く方が楽なときには、吐きます。息を吐くより吸う方が楽なときには、吸います。
暑いときには涼しい場所へ移動します。
お腹がすいてきたら、安全な住まいや温かい布団からわざわざ出て、食べ物を求めます。
生きものは常に、強い苦と弱い苦とを判断し、取捨選択を繰り返しています。
選択肢がある以上、必ず選択しなければならない。
茶色い靴か黒い靴か2色あっただけでも、選択を迫られます。
選択対象が商品でも他人でも、選びとることが必要です。
選ばざるをえない苦が迫ってくるからです。
それは「当たり前」なのです。
結婚するかしないか、結婚するなら誰と結婚するか、それも選択です。
良い方(苦が少ない方)を選ぶ。
商品として見るとかどうとか言ってられないのです。
選ぶときには、良い方を選びたいのが生きものの習性でしょう。
「当たり前」の出来事に怒らずに、「あるがまま」に受けいれた方が、苦が減ります。
お釈迦様が「苦」を説いたのは、苦がつきものの現実をあるがままに受けいれた方が楽だよ、という意味だと思います。
生きること
拝読させて頂きました。今までの人生を送ってこられた中で社会や世の中の流れを感じてあなた自身だいぶ様々不安や疑問が募っていらっしゃるように感じます。
成長していく子供達や人をあたかも商売のネタや儲けの為に扱っていくような風潮はやはりあるでしょうね。学校も競争社会の中で生き残りをかけてあえて子供達を競わせてふるいにかけるようなこともしているかもしれません。
あの大学のスポーツ活動でも人を人として認めないような指導方法があり、指導者が公然と違法な戦略を指示して強制していた姿を見ると本当にこれが人を育てることかと思ってしまいますね。
いつの間にかに人を蹴落とすような非人道な指導や姿勢になってしまっていることは本当に愚かなことかと思います。
おそらくそれは氷山の一角でしかないのかとも思います。
とはいえ誠心誠意子供達を真摯に教育していらっしゃる教育者もいらっしゃるかとは思います。
あなた自身もだいぶ迷われてどうしていいのかわからなくなっていらっしゃるのかと思います。そしてこれから先のことを思うと不安にかられて目標を見失ってしまっていらっしゃるのかと思います。
まずはゆっくりあなた自身が心の疲れを癒してみてはいかがでしょうか。心身ともに疲れ果てていては余計に自分の意思も持つこともできなくなってしまいますし、思うように活動することもできません。
まずは自らを癒しゆっくりと自分の時間を大切になさることも必要かと思います。
そして心身ともに回復なさってみてからできるだけ落ち着いてあなた自身がこれからどう生きていきたいのか、どのような志を持って生きていきたいのか、何をして目標にして生きていきたいのかをじっくりと見つめて頂きたいと思います。
あなた自身の大切な時間であり人生です。同時にあなたに関わる沢山の方々特に沢山の子供達の大切な人生です。
あなたがどのように皆さんと関わり生きていきたいのかをじっくりと考えて頂きたいと思います。
人と人とのご縁は不思議なものです。その交わりの中で様々なものが生まれ沢山の可能性が生まれていきます。
目先のことや利権にとらわれずにあなたにとっても皆さんにとっても本当に大切なことを見つけ育んで頂きたいと切に願います。
そしてあなたがこれから皆さんと本当に心から豊かに幸せに生き抜いていかれ人として成長なさっていかれますようにと切にお祈りさせて頂きます。
質問者からのお礼
〉願誉浄史 様
ご回答、ありがとうございました。
確かに、「商品=人のような価値」がありますね。そして、商品の価値の中には、その商品に関わった人や物の命の価値が含まれているのですね。これは、仏教という話ではなく、経済の基本だと思いました。
苦(ストレス)があるから人間は成長する。人の周りには、様々な強さのストレスがあります。しかし、過剰なストレス(苦)は精神疾患または身体疾患になります。「ストレスをなくすことはできないけど、どう受け入れるかが大事だ」とデイケアで教わりました。どんな苦を選べば自分の成長に繋がるのか、自分の成長にはならないけど、どちらか選ばないといけないとき弱い苦を選ぶ。でも、強い苦の方が学びをもたらすのが大きいと思うので、健康に害しない限り、強い苦を選んだ方がいいのかもしれませんね。その時の自分の状況によるのかもしれませんね。
そもそも、「苦がつきものの現実をありのままに受け入れる」とはどういうことなのでしょうか?感情を排し、ただ「スマホを見ている」ということでしょうか?当然、スマホからの情報によって、感情は動かされますが。
大切な視点、ありがとうございました。
〉Kousyo Kuuyo Azuma 様
ご回答、ありがとうございました。
以前は、Kousyo Kuuyo Azuma様がおっしゃる通り、不安や怒り、疑問がありました。しかし、今は不安や怒りはなくなりましたが、疑問を感じることはあります。「5歳児に対する虐待事件」や「東海道新幹線での殺傷事件」など、起こったとき自分はどう身を守るべきか、どうようの事件を起こさないようにするにはどうしたらよいか、いくつか案は考えますが、怒りや不安の感情はなくなりました。ただ、「こうしたらいいのにね」とは思います。怒りや不安の感情は、疲れるだけなので、その感情が沸き起こったとき、その思考の流れを振り返り、「自分はこういうときに怒りをかんじるのね」と見るようになりました。
心は回復しましたが、身が回復していないので、まずは心身の回復が優先ですね。
出会う人には、「それぞれ生活史があり、これからの人生がある」ということを考慮に入れ、いい影響を与えられたらと思います。