歴史に関する情報を見るのが苦痛です…回答受付中
最近、政治や選挙に関心を持つようになって生まれた悩みがあります。
それは歴史の認識についてです。
SNSなど歴史に関する様々な情報があふれ、多くの解釈に触れることが多くなっています。日本が過去にしてきたことや海外がしてきたこと、それぞれの国の言い分、また『やった側』と『やられた側』の立場による主張など、さまざまな見方があって、どれが真実でどれが解釈なのかがとても分かりにくいと感じています。
学ぶことや知ることが大切だというのは理解していますし、事実を正しく見極めたいという思いもあります。
しかし、情報が多すぎて、しかも立場によって主張が食い違うため、どれを信じてよいか迷い、心が疲れてしまいます。
人と歴史の話をするときも、それぞれが異なる視点や価値観を持っているので、正解のない議論のようになってしまい、余計に混乱します。
こうした『歴史認識の複雑さ』と、どう向き合えばよいのでしょうか。
真実を突き止めようとする姿勢は大切だと思う、また、学び続けていくことは大事だと考える一方で、そこに執着すると心が乱れてしまう気もします。
「自分が触れているこの歴史の情報は本当に事実なのだろうか」と、ふと学ぶことに対して不安になってしまうようにもなってきていると思います。
歴史の事実や解釈の多様さに直面したとき、私たちはどのような心構えを持ち、どう向き合い学び、今後に活かしていくことが望ましいのでしょうか。
お坊さんからの回答 1件
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全ては解釈。そして正しく見るとは。
現代にあって、歴史を正しく認識しよう、という思いは価値ある事と思います。
真実は、結局「その場で自分が五感で認識すること」にしくはないと考えますが、それにしても「自身の認識や解釈」であることから逃れられません。
例えば視力の良い人と悪い人では、世界が違って見えます。異なる家庭で育てば、言葉一つの重みも違って当然です。
なのでせめて、「全て認識や表現は、その人の過去からの積み重ね」である事を忘れない事です。小さい頃、どんな教育を受けてきたのか。その認識を初めて教わったのはいつか。その辺りを掘っていくと、「全ては認識である」ことは分かってくると思います。
厄介にも、言葉で表すと物事は展開していきやすい。「あの人は豆を食べないからケチだ。ケチだから私に意地悪する」といった、トンデモ展開だってあり得るのです。
今回の具体例では、「旧日本軍は中国に酷い事をした。だから日本の観光地を荒らしたっていいのだ」みたいなのはトンデモ展開だと思いますね。
もし真実を突き止めたいなら、原典にあたる事です。そして、原典でさえも「著者の立場によって書かれている」事を見過ごさない事。「現場にいた、こういう人は、こういう風に認識したんだな」と捉えることです。
世界には、「全てを理解できたら、全てを許すことができる」という言葉があります。ただ、それは仏様の領域。せめて「なぜ、そういう表現なのか?」を考え調べることを重ねていくより、私たちのできることはないと考えています。
所詮、人の数だけ解釈と表現はあるのです。「あなたにとっては、そうなんだね。私にとっては、こうなんだよ」と併記して理解していくのが、未来志向というものだと思いますよ。