自因自果と阿頼耶識について
仏教では自因自果の道理を説きますよね?
この道理は阿頼耶識の仕組みだけで説明できるものですか?
たとえば、自分が悪い行為(業)を1つしたとします。
その悪業が阿頼耶識に蓄えられ、悪業力に引っ張られて悪果を受けるということですよね?
悪業を造った後、悪果を受けるまでの仕組みがイマイチよく分からないので教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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異熟
Kei様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
唯識では、煩悩による行い、汚れた行いは、悪業となって、阿頼耶識に業種子(しゅうじ)として蓄えられるところとなります。
一方で、清らかな行い、例えば、仏道においての修行、六波羅蜜などの実践による行いは、善業となって、同じく阿頼耶識に業種子として蓄えられるものとなります。
もちろん、善業でも悪業でもない中性の行いもありえます。
それら阿頼耶識に蓄えられた業種子においては、過去の行いによる業が、ごったまぜとなりながら、熟してゆく中で、異熟して、やがて果報をもたらしていくことになります。
そのため、今、一つ悪業をしても、即座にその結果が生じるというわけではなく、過去における善業や悪業の混ぜ合わさった熟され度合いの中によって、その悪業の結果もどのようなものとして現れるのかが変わってくるというところとなります。
川口英俊 合掌
種子
アーラヤ識に蓄えられる業は、種子にたとえられます。
種がアーラヤ識に植えられてから芽を出すまでにはタイムラグがある、ということではないでしょうか。
日常生活でも、過去の記憶がふとした瞬間になぜか思い出されます。
普段は忘れている記憶が、何かのきっかけで思い出される。
そんな感じでは?
浄土宗では、人が死ぬとき、臨終間際に心が乱れて(眠っていた過去の悪業がでてきて)、地獄などに転生してしまうことを恐れます。
しかし、念仏していれば、臨終の瞬間に悪い業(悪い種子)の果が出ても、阿弥陀仏がお迎えに来てくださるから、阿弥陀仏のおかげで心が落ち着き、極楽浄土に往生できると言われます。