許すこと
昨日義実家のマナーについて質問したものです。
気がきく人は気が利かないひとを許せないとあり、その通りだと思います。
私は小さい時から厳しく育てられ、人に気を使い、礼儀にはうるさい家で育ち、義実家の礼儀のなさにはいきどおりがあるのですが、私と違う考えの人も認めて、許したいとは思っています。
礼儀のない義実家一族を許す気持ちになるにはどうしたらいいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
体を巻いている包帯を少し緩めてみましょう。
亀山純史です。昨日のご質問に対しての回答に続いて、こちらのご質問にも回答させていただきます。
私の基本的な考えは、マナーと同様に、礼儀は相手に対してこちらがすべきものであり、相手からこちらに対して期待すべきものではないということです。
そして、許す気持ちになれないとは、例えて言えば、食卓として使うようにと言われていたテーブルを、勉強机として使うことに抵抗を感じるようなものだと思います。「許す」とは、こちらの考えを柔軟にすること、それが「許す」ということでしょう。「こうでなければいけない」という包帯できつく巻かれた体を、少しその包帯を緩めて、身動きが出来るようにしてあげることです。どんなに包帯で患部を保護していても、その包帯がきつすぎて、血の巡りが悪くなってはダメですよね。正しいことの押し付けや正義の押し付けは、時として、それが正しいことであるが故に、それが正義であるが故に、人はそれに反論が出来なくなります。しかし、そのような状況は、必ずしも良好な人間関係を生むとは言えません。時には、あなたの体を巻いている包帯を少し緩めてみましょう。
以上が私からの回答です。
自分を正義と立てて物事を見ない
あなたは自分の育ってきた過程で見聞きした知識のうえにたって、自分以外のものを評価しているから、赦せないのです。
一般的な常識や善悪、是非を建てる前の姿をそのまま受け入れることが、あなた自身が楽になる方法です。
今朝、水道からお湯を出そうとしたところなかなかお湯にならずどうしたものかと元のスイッチを見るとオフになっていました。私はただそのスイッチをオンにしました。それでいいのです。そこで、いつもオンになっているのに!誰が切ったのだ!と腹を立てては自分で自分を苦しめるだけです。
我見を通した物事の見方をやめ、それ以前の様子をマコトとして捉えてみてください。