生きていてもむなしい
生きていても全然楽しいことがないような気がします。
子どもも生まれて、これからの生活を考えると貯金もしないといけない。生活にすぐに困るわけではありませんが裕福では決してありません。子どもはもう一人ほしい気持ちもあるのですが、夫の年齢が高いこともあり、教育費や老後のことを考えると不安もあります。
自分の楽しみのためにお金を使うことに常に罪悪感があり、何をしても楽しめません。
若いときは遊びに行ったり旅行に行ったり、ほしいものもたくさんあったりして、もっと楽しいことがあったような気がします。
学生時代の友達や同世代の親戚は皆、いい会社に入って経済的にも余裕があり、私もそういう道に進めばよかった、と思ってしまいます。
そうでなければ収入の高い人と結婚すればよかった、どうして結婚するときにそういう風に考えなかったんだろう、とどんどん後悔してしまいます。
経済的なことだけではなく、どんなことでも楽しめない、後悔することばかりです。
振り返るとこの10年ほど、就職した会社についてもあとから後悔、付き合っていた人と別れたときもしばらくしてから後悔しつづけ、自分の選択のすべてに後悔しています。それも私がうまくできないからなんだな、と思って苦しいです。
実家の両親とは不仲ではないものの、なんでも話せる仲ではありません。友達の多い人に憧れますが実際には友達も少なく、自分にはなにか欠陥があるのかと思っています。
夫に対しても最近はイライラしてけんかばかり、これから何十年も楽しく暮らせる自信がありません。
夫ともけんかをして、実家もそれほど居心地はよくなく、友達もいない、私の居場所はどこにもないような気がします。
子どもはかわいい反面、遊んでいるときなどにふと「一体何をしているんだろう」と、むなしい気持ちになります。
子どもも私に似たら学校でうまくやっていけないかもしれないし、成長していい関係になれるかもわからない。
私は何をやってもうまくいかない気がします。
この、何をしてもずっと続く生きづらさのようなものからどうにか逃れたいです。でもどうすればいいのかわかりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あってもなくても
仏説無量寿経というお経に
原文「田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(中略)田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。(中略)適(たまたま)一つあればまた一つ少(か)けぬ。これあればこれ少けぬ。」
意訳「田んぼがあれば田んぼの心配をする。家があれば家の不満をもらす。田んぼがなければ田んぼが欲しいと思い、家がなければ家が欲しいと思い悩む。たまたま一つがあっても、(ないことばかりに目がいけば)一つはかける。これがあってもこれがないと満足することを知らない。」
と我々の姿が教えられています。ないものねだりで今と言う地に足がつかず、今あるものの喜びを感じられないというところでしょうか。
もしもああだったら…こうしていたら…そのように頭の中に理想を思い描いてそれとそうではない現実を比べてしまう。それではいつまでも満足することはありません。
人間は慢性的欲求不満症なのです。
つまり、あなたが感じている「何をしてもずっと続く生きづらさのようなもの」はあなたの環境や条件が原因ではなく、あなたの中にその原因があるということです。
それは何もあなたが悪いということではけしてなく、あなたも含め人間だれでもそのように考えてしまうクセがあるからそのことを自覚して現実をみましょうということです。
結婚して、お子様にも恵まれ、少なくともご友人もいらっしゃる。
「ない」ことばかりでなく今「ある」ご縁を丁寧に生きてみませんか。それでも足りないものは仏教にその原因を尋ねてみませんか?
誰でも「私が私でよかった」「これが私の人生だ」「生まれてよかった」というような「本当の満足」を求めています。
本当の満足は自分の外側の条件を満たすことでは得られません。それは王子様であったお釈迦様がその身分と環境を捨てて出家されたエピソードにもよく見て取れます。
言うならば我々は王様になりたいのです。地位に名誉に財産が欲しいのです。しかしそれは本当の満足ではないとお釈迦様は教えてくれます。
お釈迦様はいくら好条件の環境を手に入れても自らが老い・病み・死すべき存在であることをしり、道を求められました。
あなたもまずは今あるご縁を見つめるとともに、仏教にその空しさの解決を求めてみませんか?
是非ともお寺や書店に足を運んで教えに自らの在り方を尋ねてみましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございました。私の中に原因がある、たしかにその通りだと思います。今あるご縁に感謝して生きていきたいです。