私なんかでごめんなさい
あらゆる場面で、「私なんかでごめんなさい」と思ってしまいます。
そう思ってしまう場面が一番多いのは、職場です。
若い男性が多い職場に配属されたのですが、「同期のかわいいA子が来た方が喜ばれたのにな」と思っています。
私の職場とA子の職場との合同の飲み会がおこなわれた際、私の職場の男性陣が、A子に「かわいい」「ずっと話したかった」と言っているのを聞いて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
また、仕事ができ、ムードメーカーである先輩の後任に決まったことに対し、「トロくて暗い私なんかじゃ周りはやりづらいよなあ」と引き継ぎ前の今から憂鬱です。
後任に選ばれた理由は、私に能力があるためではなく、たまたまそういう人員配置だったためなので、余計に申し訳ないです。
すこしでも知識をつけようと、時間外に出勤して資料を見たりしているのですが、「仕事できないくせにお金なんてもらえない」と時間外手当の申請もできません。(ブラック企業というわけではなく、私が勝手にそう思っているだけです)
強い申し訳なさを感じるようになったのは大学生くらいからで、年々、悪化しています。
最近では、美容院で「こんなダサいブスが来てごめんなさい」と思ったり、電車で「こんなデブが隣に座ってごめんなさい」と思ったりします。
「何かの拍子に悪いところが浮かぶ」というより、「私=悪い」なので、他のことを考えていないときは常に謝っています。
正直、とても生きづらいです。毎日かなり疲れます。病気だとも思います。
ただ、どうしても申し訳ない気持ちが拭えません。健康に生きていることですら、罪悪感があります。
この申し訳なさの正体は、いったい何なのでしょうか。どうすれば、解放されるのでしょうか。
ご回答、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【機法二種深信】「ごめんなさい」と「ありがとう」のバランス
”あらゆる場面で、「私なんかでごめんなさい」と思ってしまいます”
「自身はこれ現に 罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転し て、出離の縁あることなき身としれ」 善導
自分のバカさ加減、能力の低さ、至らなさを思い知り、恥ずかしい、情けない、私なんかでごめんなさいっていうこの感覚、じつはとても大切なんです。これを【機の深信】といいます。平たく言えば、<身の程を思い知る>といったところでしょうか。しかし、ここで終わると、妙な虚無感に取り憑かれて凹んでいく一方です。
今のあなたのようにね。
「それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」 親鸞
自分の愚かさ、未熟さ、至らなさ、自分ってダメだなぁと痛感しながら、一方で「それでも、こんな自分でさえも見捨てずに支え、励まし、慰め、癒やし、導いてくれる存在や働きがある」という事実にも目を向けると、心の底から打ち震えるような悦びが吹き上がってくる。これを【法の深信】といいます。ちなみに【機の深信】なき【法の深信】は、単なる理論、理屈、屁理屈、おとぎ話、綺麗事くらいにしか思えないかもしれません。
人生は、私なんかでごめんなさい【機の深信】と、こんな私の為に有難う【法の深信】をバランスよく深めていく事が肝要です。
大丈夫、あなたは赦されて許されている。仕事をクビになったわけでもないし。そもそも今、生きているのがその証拠。
今日も元気にいってらっしゃい。拝
唯一無二-モノサシでは測れないあなた
自分に自信が持てないのですね。いただいた命の尊厳を見失っておられるのですね。周りと比べて劣等感を持ってしまうのですね。
しかし、あなたが「何かの拍子に悪いところが浮かぶ」というより、「私=悪い」とお感じになってしまっているという事は、あなた自身が誰とも代わりのきかない唯一無二の存在であるという事なのです。
仕事で「あなたの役割」の代わりはいても、「あなた自身」の代わりはいません。能力についても容姿についても同じことです。
誰かのモノサシで図った基準で「あなたの一部」「あなたの側面」の代わりはきいても「まるごとのあなたそのもの」の代わりはどこにもいない。
あなたが「抱く申し訳ない気持ち」も「生きづらさ」もあなただけのもの。誰かのそれらとどちらが大きいか小さいか比べられるものではありません。
世界中の誰もが幸せでもあなたが不幸ならあなたは不幸。世界中の誰もが不幸でもあなたが幸せならあなたは幸せ。
誰かの不幸に思いを馳せる事、寄り添おうとすることはできる。けれどそれはあくまでも「想像」にしか過ぎない。どこまでも自分の経験・自分の気持ちに引き当てて想像するしかできない。
だから同じようにあなたも誰かも唯一無二。天上天下唯我独尊(天の上にも下にも我は唯独りがゆえに尊し)です。
「私なんかでごめんなさい」
その感覚は誰かや何かがあなたにそう思わせているものなのか。あなた自身が思っているものなのか。
確かに悲しいかな人には子のみがあります。合う合わないがあります。だから不快感を示されることもあるかもしれない。疎外感を感じることもあるかもしれない。
けれどそれで否定されるのは「あなたの何か」であって「あなた自身」ではない。あなた自身は誰にも代わりのきかない唯一無二の尊い存在なのだから。
そのあなた自身があなた自身を責めてしまっているのならあまりにもったいなくはないでしょうか。それは天に唾をはくようなもので自分を汚すものではないでしょうか。
あなたにも他人にも、必ず人には捨てられないモノサシがあります。誰かのモノサシに怯えてビクビクするだけではもったいないです。どんなに合わせようとしてもあなたはあなたなのですから。あなたのモノサシ全開で生きたっていいのです。
そして最終的にはあなた自身のモノサシからも自由になる。そこに生きづらさを破るカギがあるかもしれません。