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私なんかでごめんなさい

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有り難し有り難し 46

あらゆる場面で、「私なんかでごめんなさい」と思ってしまいます。

そう思ってしまう場面が一番多いのは、職場です。
若い男性が多い職場に配属されたのですが、「同期のかわいいA子が来た方が喜ばれたのにな」と思っています。
私の職場とA子の職場との合同の飲み会がおこなわれた際、私の職場の男性陣が、A子に「かわいい」「ずっと話したかった」と言っているのを聞いて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

また、仕事ができ、ムードメーカーである先輩の後任に決まったことに対し、「トロくて暗い私なんかじゃ周りはやりづらいよなあ」と引き継ぎ前の今から憂鬱です。
後任に選ばれた理由は、私に能力があるためではなく、たまたまそういう人員配置だったためなので、余計に申し訳ないです。
すこしでも知識をつけようと、時間外に出勤して資料を見たりしているのですが、「仕事できないくせにお金なんてもらえない」と時間外手当の申請もできません。(ブラック企業というわけではなく、私が勝手にそう思っているだけです)

強い申し訳なさを感じるようになったのは大学生くらいからで、年々、悪化しています。
最近では、美容院で「こんなダサいブスが来てごめんなさい」と思ったり、電車で「こんなデブが隣に座ってごめんなさい」と思ったりします。

「何かの拍子に悪いところが浮かぶ」というより、「私=悪い」なので、他のことを考えていないときは常に謝っています。
正直、とても生きづらいです。毎日かなり疲れます。病気だとも思います。
ただ、どうしても申し訳ない気持ちが拭えません。健康に生きていることですら、罪悪感があります。

この申し訳なさの正体は、いったい何なのでしょうか。どうすれば、解放されるのでしょうか。
ご回答、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【機法二種深信】「ごめんなさい」と「ありがとう」のバランス

”あらゆる場面で、「私なんかでごめんなさい」と思ってしまいます”
「自身はこれ現に 罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転し て、出離の縁あることなき身としれ」 善導
自分のバカさ加減、能力の低さ、至らなさを思い知り、恥ずかしい、情けない、私なんかでごめんなさいっていうこの感覚、じつはとても大切なんです。これを【機の深信】といいます。平たく言えば、<身の程を思い知る>といったところでしょうか。しかし、ここで終わると、妙な虚無感に取り憑かれて凹んでいく一方です。
今のあなたのようにね。

「それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」 親鸞
自分の愚かさ、未熟さ、至らなさ、自分ってダメだなぁと痛感しながら、一方で「それでも、こんな自分でさえも見捨てずに支え、励まし、慰め、癒やし、導いてくれる存在や働きがある」という事実にも目を向けると、心の底から打ち震えるような悦びが吹き上がってくる。これを【法の深信】といいます。ちなみに【機の深信】なき【法の深信】は、単なる理論、理屈、屁理屈、おとぎ話、綺麗事くらいにしか思えないかもしれません。

人生は、私なんかでごめんなさい【機の深信】と、こんな私の為に有難う【法の深信】をバランスよく深めていく事が肝要です。

大丈夫、あなたは赦されて許されている。仕事をクビになったわけでもないし。そもそも今、生きているのがその証拠。

今日も元気にいってらっしゃい。拝

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唯一無二-モノサシでは測れないあなた

自分に自信が持てないのですね。いただいた命の尊厳を見失っておられるのですね。周りと比べて劣等感を持ってしまうのですね。

しかし、あなたが「何かの拍子に悪いところが浮かぶ」というより、「私=悪い」とお感じになってしまっているという事は、あなた自身が誰とも代わりのきかない唯一無二の存在であるという事なのです。

仕事で「あなたの役割」の代わりはいても、「あなた自身」の代わりはいません。能力についても容姿についても同じことです。
誰かのモノサシで図った基準で「あなたの一部」「あなたの側面」の代わりはきいても「まるごとのあなたそのもの」の代わりはどこにもいない。

あなたが「抱く申し訳ない気持ち」も「生きづらさ」もあなただけのもの。誰かのそれらとどちらが大きいか小さいか比べられるものではありません。
世界中の誰もが幸せでもあなたが不幸ならあなたは不幸。世界中の誰もが不幸でもあなたが幸せならあなたは幸せ。

誰かの不幸に思いを馳せる事、寄り添おうとすることはできる。けれどそれはあくまでも「想像」にしか過ぎない。どこまでも自分の経験・自分の気持ちに引き当てて想像するしかできない。

だから同じようにあなたも誰かも唯一無二。天上天下唯我独尊(天の上にも下にも我は唯独りがゆえに尊し)です。

「私なんかでごめんなさい」

その感覚は誰かや何かがあなたにそう思わせているものなのか。あなた自身が思っているものなのか。
確かに悲しいかな人には子のみがあります。合う合わないがあります。だから不快感を示されることもあるかもしれない。疎外感を感じることもあるかもしれない。

けれどそれで否定されるのは「あなたの何か」であって「あなた自身」ではない。あなた自身は誰にも代わりのきかない唯一無二の尊い存在なのだから。

そのあなた自身があなた自身を責めてしまっているのならあまりにもったいなくはないでしょうか。それは天に唾をはくようなもので自分を汚すものではないでしょうか。

あなたにも他人にも、必ず人には捨てられないモノサシがあります。誰かのモノサシに怯えてビクビクするだけではもったいないです。どんなに合わせようとしてもあなたはあなたなのですから。あなたのモノサシ全開で生きたっていいのです。
そして最終的にはあなた自身のモノサシからも自由になる。そこに生きづらさを破るカギがあるかもしれません。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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「心構え・生きる智慧」問答一覧

夫の過去の浮気が忘れられない

浮気、不倫など自分とは無縁だと思っていたら、夫が不倫していました。 夜中に自分の部屋で女と電話している所を同居の娘に聞かれてバレました。 娘も私に言い出さなくて、2ヶ月は胸に秘めていたそうです。 女と遊び始めてからは、夫は 仕事にも行かず、女のシフトに合わせての外出、外泊、3日空けずに女と昼間からホテル。私は離婚するつもりで、探偵を雇い 証拠を揃えて、弁護士も雇い、女に慰謝料請求しました。怒り狂った夫は、私と娘に恫喝まがいの暴言を吐きましたが、結局は、慰謝料請求を取り下げて欲しいと言う事。もちろん、却下するものの、女は弁護士から送られた内容証明を無視。 弁護士からもあんな酷い態度の女性は初めてで、無視を続けてる以上、どうしようもない。訴えたところで、離婚していないのなら、判決で決まる慰謝料なんて少額。 訴えれば、私が損をすると畳み込まれました。 夫とは、よくよく話し合い、許してはいないけど、謝罪は受け入れる事にし、仕事にも復帰した夫、憑き物が取れたように、顔つきも元に戻り、平穏な毎日を送っていますが、私はあの女が許せないままになっています。夫が1番悪いことはわかっているつもりですが、無視をしつづけてる女が許せない気持ちが続いてしまってます。 自宅のパソコン、夫のLINEが同機していたので、2人のLINEやりとりはずっと見ていました。見てはいけなかったのでしょうが、探偵に情報を送るために確認していました。そのLINEには女が、離婚をそそのかしていたり、泊まりをねだっていたり、私の悪口を書いていたり、別れると言いながら、夫を呼び出しホテルで仲直りを繰り返している事がわかりました。 夫はもう一年前の事、もう終わった事と自分の中では終わらせてしまってます。 夫とは穏やかに暮らしているものの、私には落とし所が見つけられないままになっています。こんな私は見苦しいですよね? 再構築を選択したとは言え、あの頃の夫の顔つきや、暴言などがフラッシュバックしてしまいます。 こんな私にお言葉を頂ければありがたいです。残りの人生を穏やかに暮らしたいのです…

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普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

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SNSでの誹謗中傷が長い間続いています。

あるSNSで複数人、グループのような形で仲良く交流をしてた人々がいました。(以下、ネッ友たちと記載させて頂きます。) そのネッ友たちとは約4年程交流していたのですが、ある日、ちょっとした事で喧嘩をしてしまい、いわゆる喧嘩別れをしました。 喧嘩の内容は、意識のすれ違いというか、 正直なところ、何故そこまで執着して責められないといけないのだろう…といった内容です。どちらに非があるのか、聞かれれば微妙な内容です。 喧嘩をした後は速攻アカウントを削除しネッ友たちから離れました。 それから2年後のある日、たまたまネッ友たちの内の1人のアカウントを発見してしまい、興味本位で覗いてしまいました。 悲しい事に、まだ私に関する悪口が沢山書かれていました。 過去の私の投稿や発言を転載し、揶揄する内容のものもありました。 会話のやりとりもあったため、察するに仲間内で盛り上がり、当時のメンバー全員で書いているのだと思います。 とても怖く、ショックであったため、もうそのアカウントは見ておりません。 お恥ずかしい話なのですが、当時、そのネッ友たちに自身の本名などの個人情報を伝えてしまったため、いつか個人情報をインターネットにバラまかれたりしないか?と心配で仕方ありません。 住所なども特定されてしまう、または既に特定されているのではないか?と余計な妄想までしてしまい悩んでいます。 自分の失態が招いた出来事であるのは勿論承知なのですが、デジタルタトゥーを残されることが特に心配なのです。 正直なところ、2年も誹謗中傷が続いているものですから、何をされていてもおかしくないと考えております。 現在進行形で悪口が書かれる事と、個人情報がインターネットにバラ撒かれないか、という不安で大変辛いです。 毎日、普通に生活していても、ふとした瞬間に書き込まれた悪口を思い出しては辛い気持ちになり、「今も悪口を言われているのだろう。」といった悪い思考に取り憑かれています。 どうしても病的に思い出してしまいます。 私は一生、この不安や憂鬱な気持ちと付き合っていく他ないのでしょうか。 どうすればSNSでの誹謗中傷を気にせずに居られるでしょうか? 何せ粘着されている期間が期間であるため、精神的に大変参っております。 どうすれば気にならなくなるか、または立ち直り方など、心の持ちようをお教えください。

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愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
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楽に生きたい

私は物事をマイナスに考える癖があるようです。 いつも怒られるのではないか、誰かから攻撃されるのではないか、嫌われているのではないかとビクビクしながら生きている事に気づきました。 「ちゃんとしなくちゃ」とか「人に迷惑かけないように」とかいつも気が張っていて何処にいても誰といても休まりません。 常に自分で自分を追い詰めているようです。 かと言って他人にそういう自分の状態を出しているわけではなく、周りの人は私がそんな事考えてるなんて思ってもいないと思います。 そのギャップにも苦しいです。 私は繊細で、大体の人が気にもしないような事を気にしているようです。 人の表情を読み取ってしまったりします。(今この人言ってる事と思ってる事違うな。など) 私のような人間がいる一方で、適当に生きている人(例えば人の話を聞かない人とか、遅刻する人、挨拶しない人、無愛想な人など色々な方がいますが)は凄く自由に見えて、ルールを守らなくても難なく生きてる人もいるんだと疑問に思ってしまいます。 嫌われていると思っていた人に話をしてみたら、そんな事ひとつも思ってないよ?大丈夫だよ?と言われたのですが、表情を読めば私に対して良く思っていないような感じに見えるので、「本心では嫌いだけど大人の対応をしてくれているんだ」と疑心暗鬼になってしまって辛いです。 他人の機嫌を損ねるのが怖いですし、自分を否定されるのが怖いです。 死を考える事は無くなりましたが、1日1日を終えるのが精一杯です。 もっと自由に生きられたらどんなに楽しい人生になるんだろう…。 自分なりに改善策を調べ、何度も何度も実行していますが、なかなか考え方が変わりません。 とにかく生きづらいです。 どうすれば楽に生きられるでしょうか?

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必要以上の罪悪感を抱かなくする為には…?

最近、ちょっとしたことに罪悪感を感じてしまいます。勿論、謝るべきだなと思った事は直ぐ謝るのですが、普通の人なら気にしないようなことに対しても、謝った方がいいのかな?って何に対してもそう思ってしまうときがあります。 例えるなら、外に出かけてて、壁にカバン、もしくは手が軽くぶつかっただけでも、傷付けてしまっていてはどうしようと思って確認しても傷も何一つ無くても、明らかに自分がぶつけたところとは違う所に傷を見付けた時も、実は私がしたんじゃないか?ってモヤモヤしてしまったり、他にも普通の人なら謝らないような小さな事に対しても罪悪感を凄く感じてしまい常に謝ろうか考えてしまいます。 ですが、最近は、その何に対しても罪悪感を感じて謝ろうとするのは、相手を思って謝ろうとしてるのではなく、自分のこの何に対しても感じる罪悪感を消そうとして気持ちを押し付けようとしてるだけだと思うようになりました。 本当に相手を思うのなら、時と状況を見極めて、何の為に謝るのかを考え、相手のためになることをするべきだと思うのですが、普通なら気にしない小さな事でも、申し訳ないことをしたと思い、凄く罪悪感が出てきてしまいます。 特に、大きな失敗した時やメンタルが落ち込んでる時にこういう風になりやすいです。 どうしたら、必要以上の罪悪感を感じなく、小さな事に対して動じなくいられるような精神力を付け穏やかにいられるようになりますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ