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中絶

回答数回答 1
有り難し有り難し 22

息子を出産して1年。
再び妊娠したのですが、
周囲に出産を反対され中絶しました。

それから、SNSや身近な友達の2人目妊娠、出産報告を知らされるたびに

あー、みんな死んだらいいのにって思います。

苦しいです。周りの不幸を願う自分も嫌だし、幸せそうな人間を見るのも嫌。

どうすれば、そういう心を無くすことができますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が自分の意志で自分の力で生きる意志を

ウチの幼稚園のママさんたちはみんな3人、2人のママさんが多いです。
これは女性個人の意志が尊重されるべき事であろうと思います。
決定してしまったことに関しては今更どうするべきだったということを言っても取り返しがつきません。
その子のためにも今後前を向いて、あなたがお子さんをどうしても持ちたいのであれば、自分の意志で責任をもって授かる機会を得たのであれば懸命に人を恨まず他人のせいにせず育てればいいだけです。
何よりもそのお子さんを本当に大事にしてあげるべきです。
あなたの心がネガティブな心でふつふつとしていれば、お子さまにも愛が伝わりません。
人生、人のせいにはしないで全部自身の活動として、自身を幸せにするためにもいつまでもくすぶっているそのネガティブ意識は追い出すべきです。
中絶せざるを得なかったお子さんに一度きちんと向き合うべきでしょう。
周りの反対があった、なかったにせよ、お母さんの選択としてそうせざることを得なかったことを両親で一緒に詫びるべきです。女性だけではお子さまを宿すことはできません。
日本の中絶は女性ばかりが悪者であるかのように扱われていますが、男性の方が悪いものです。詫びるべきは詫びる。あやまるべきはあやまる。懺悔すべきは懺悔す。反省すべきを反省して、きちんと決着をつけないからくすぶっているのでしょう。
男性も水子の供養をしてあげる必要があるのです。
自身の中のあの子を心底救ってあげるには自身への向き合いが必要なのです。
水子供養とは外の赤ちゃんを供養するということだけではありません。
自身の中のその子に対する尊厳を認めて心底自分自身に向き合うべく行為・お詫び・供養するべきことなのです。
亡き人への最大の供養は菩提心です。
そのくすぶっているMADな心を転じて、自分も世間もお子さんもパートナーもあなたに中絶を勧めた人たちをも一切を救う力を宿すことで救われるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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