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人を間接的に殺しているかも回答受付中

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最近、人を間接的に殺しているかどうかが不安になります。道路に落ちている大きい石を危ないと思い植え込みに投げたとき、その石が植え込みから出て人がそれで転んで亡くなってしまったらどうしようとか考えてしまいます。これはおかしいことなのでしょうか?人殺しになってしまわないか心配です。また、その石を探し出して捨てた方がいいのでしょうか?

2025年5月15日 18:35

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご相談ありがとうございます。
とても繊細で、誠実な心を持った方なのだと、文章から伝わってきました。

「誰かに迷惑をかけたのではないか」「知らないうちに傷つけてしまったのではないか、
そう感じて心を痛めるのは、命を大切に思う心の表れであり、決して“おかしい”ことではありません。

ご相談の内容は、仏教的に見ると「慈悲(他者を思いやる心)」がとても強い方の傾向とも言えます。

ですが、その優しさが過剰になると、実際には起きていないことまで「自分のせいかもしれない」と考えてしまう苦しみに変わってしまいます。

あなたが心配しているようなケース「石を植え込みに投げた→誰かが転ぶ→命を落とす」
というのは、極めて想像上の可能性にすぎません。

そして、もし仮に何かが起きたとしても、「危険だから除けよう」と思って行動したあなたの心」は、責められるようなものではまったくないのです。

仏教では、行為そのものよりも、そのときの“心の動機”が大切だと説きます。

あなたは、人を助けたい、危険を取り除きたいという善意から動いています。
そこに殺意も悪意もありません。

だから、たとえ不安になっても、「私は人を傷つけたいと思ってやったのではない」と何度でも思い返してあげてください。

「探しに行って処分したほうがいいか」と思うお気持ちも、あなたのまじめさの現れです。

でも、現実的にはすでに処理されている可能性も高く、また石を再び動かすことで逆に危険を生んでしまうこともあります。

ですので、「あのときできる限りのことを私はした」と、いったん心を手放すことも“責任ある行動”の一部です。

仏教では、誰かの命を想い、自分の行動を省みて悩む心を、とても大切にします。
あなたのように「人を傷つけていないか」と思える人こそ、最も“命に対して誠実な生き方”をしているのです。

どうか、「私は悪人なのでは」と思わないでください。

むしろあなたのその心の深さは、人を救う力さえ持っています。

不安でつらい時は、どうか一人で抱えず、またいつでもここに相談してください。
あなたの心に、やすらぎが訪れることを心から願っています。

2025年5月15日 23:10
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有り難し
おきもち

広島の山あいで、今日も「なんまんだぶつ」とつぶやいています。 浄土真宗本願寺派の僧侶、ケンコウと申します。 日々の中には、言葉にならない思いや、誰にも言えないもやもやがあるものです。 そんな時こそ、仏さまの教えが、ふっと心に灯りをともしてくれることがあります。 この「はすのは」では、あなたの声に耳を傾けながら、一緒に“いま”を見つめ直す時間をつくっていきたいと思っています。 堅苦しくなく、あたたかく、時にゆるく。 どうぞ、あなたのお話、聞かせてくださいね。

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