人を間接的に殺しているかも
最近、人を間接的に殺しているかどうかが不安になります。道路に落ちている大きい石を危ないと思い植え込みに投げたとき、その石が植え込みから出て人がそれで転んで亡くなってしまったらどうしようとか考えてしまいます。これはおかしいことなのでしょうか?人殺しになってしまわないか心配です。また、その石を探し出して捨てた方がいいのでしょうか?
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大丈夫!その繊細な心はあなたにとっての宝物です
お尋ねの石の件ですが、植え込みに置かれたのであれば、そのままで大丈夫ですよ。安心してください。
「人を間接的に殺しているかも」という不安、そして「これはおかしいことなのか?」という気持ち、一人で抱えているのはとても辛かったでしょう。最近、特にそのようなことが気になり始めたとのことですが、何かきっかけになるような出来事、体調・身近な人間関係などで変化はありましたか?
つい先日、私は突然股関節が痛くなり、数日間は足に体重がかけられず杖を使ってしか歩けなくなりました。その間は物事を否定的に考えがちになり、不安が募ることが多かったのです。でかいからあげさんも、言葉にはできない何か大きな変化や、心の負担を抱えていらっしゃるかもしれない、と勝手に想像してしまいました。
大切な相談を寄せてくれたあなたに、一つ大切なことをお伝えさせてください。実は、私たち人間は意識するしないに関わらず、他のいのちをいただかなければ生きていけない存在だということです。毎日の食事も、動物や植物といった生き物のいのちをいただいています。その事実に深く目を向け、大きな悲しみと苦悩を抱えた一人が仏教の開祖であるお釈迦さまでした。そして、その苦悩の中から、「人はなぜ生まれ、どう生きるのか」という根源的な問いと向き合い、その答えを人々に説き続けた方でした。
同じように繊細な心を持っているあなたの問いは、決して「おかしい」ものではなく、むしろ、他の人が気づかないようなことにも心を寄せられる素晴らしい個性だと私は思います。もちろん、その繊細さゆえに生きづらさを感じることもあるかもしれません。でも、大丈夫。このハスノハには、あなたのその繊細な心、そして素晴らしさと生きづらさの両方を温かく受け止め、分かち合える僧侶がたくさんいます。
どうか思い出してください。あなたのいのちが今ここにあるのは、数えきれないほど多くのご先祖さまがそれぞれの時代を懸命に生き抜き、いのちのバトンを繋いでくださったからです。また、あなたの生活は、目には見えないたくさんの自然の恵みや、社会の仕組みによって支えられています。その繊細な心を、今度は、多くの人が忘れがちな「いのちの有り難さ」や「日々の奇跡」に気づくための力として、少しずつ活かしていってみてはいかがですか。
これからも、あなたの人生をハスノハ一同、心から応援しています。
1日1日を大切に、一瞬一瞬を大切になさって
拝読させて頂きました。
あなたはご自分がなさったことで間接的にしろ人を殺しているのではないかと思ってしまいとても悩んでいるのですね。詳細なあなたのことや状況はわからないですけれど、あなたがふとそう思ってしまうのもわかるように感じます。お気持ち心よりお察しします。
あなたが直接的にしろ間接的にしろ他者を殺してしまうということではないと思います。様々な巡り合わせやタイミングによって死はもたらされますからね。
あなたが石を探すことではないでしょう。私はそう思います。
ただ死は私達の人生や命や生活といつも隣り合わせに存在してるのです。私達の生の反対側にはいつも死があるのです。
どの様な死を迎えるのかはそれぞれ違いがあります、病での死もあり、事故での死もあり、老衰での死もあり、幼くしての死もあり、生まれる前での死もあります。
次の瞬間には死が目の前にあるかもしれませんし、1か月後3か月後半年後5年後10年後或いは20年後50年後かもしれません。おそらく100年後には必ず亡くなっているでしょう。
当たり前かもしれませんがどうか1日1日を大切に、一瞬一瞬を大切になさって生きて下さいね。その一瞬は2度とありません
あなたが1日1日を大切に、一瞬一瞬を大切になさって生き、皆さんとのご縁を大切になさり、1日1日を一瞬一瞬を心から健やかに豊かに充実して生き抜いていかれます様に切に祈っております。そしてあなたを心より応援させ頂きます。
あなた自身を先ず大切になさって生きて下さいね。至心合掌
ご相談ありがとうございます。
とても繊細で、誠実な心を持った方なのだと、文章から伝わってきました。
「誰かに迷惑をかけたのではないか」「知らないうちに傷つけてしまったのではないか、
そう感じて心を痛めるのは、命を大切に思う心の表れであり、決して“おかしい”ことではありません。
ご相談の内容は、仏教的に見ると「慈悲(他者を思いやる心)」がとても強い方の傾向とも言えます。
ですが、その優しさが過剰になると、実際には起きていないことまで「自分のせいかもしれない」と考えてしまう苦しみに変わってしまいます。
あなたが心配しているようなケース「石を植え込みに投げた→誰かが転ぶ→命を落とす」
というのは、極めて想像上の可能性にすぎません。
そして、もし仮に何かが起きたとしても、「危険だから除けよう」と思って行動したあなたの心」は、責められるようなものではまったくないのです。
仏教では、行為そのものよりも、そのときの“心の動機”が大切だと説きます。
あなたは、人を助けたい、危険を取り除きたいという善意から動いています。
そこに殺意も悪意もありません。
だから、たとえ不安になっても、「私は人を傷つけたいと思ってやったのではない」と何度でも思い返してあげてください。
「探しに行って処分したほうがいいか」と思うお気持ちも、あなたのまじめさの現れです。
でも、現実的にはすでに処理されている可能性も高く、また石を再び動かすことで逆に危険を生んでしまうこともあります。
ですので、「あのときできる限りのことを私はした」と、いったん心を手放すことも“責任ある行動”の一部です。
仏教では、誰かの命を想い、自分の行動を省みて悩む心を、とても大切にします。
あなたのように「人を傷つけていないか」と思える人こそ、最も“命に対して誠実な生き方”をしているのです。
どうか、「私は悪人なのでは」と思わないでください。
むしろあなたのその心の深さは、人を救う力さえ持っています。
不安でつらい時は、どうか一人で抱えず、またいつでもここに相談してください。
あなたの心に、やすらぎが訪れることを心から願っています。
質問者からのお礼
みなさんからのメッセージを読んだ後とても心が楽になりました。
ありがとうございます。