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皆さんの考える最期の迎え方とは

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有り難し有り難し 15

昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。
田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。

とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。

私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。
でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。
この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。

「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。

“人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう”
今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。

お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。
例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。
今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか?
お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死に際して歓喜が生じますように

ゆう游様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

田中雅博師とは、ご生前にフェイスブックにての繋がりがございまして、末期癌に侵されながらにも、かなりお忙しい先生にて、ほんの僅かなことでありましたが、有り難くにも交流させて頂きました。

その関連にてお送りさせて頂きました本がございまして、それは、「チベットの生と死の書」ソギャル・リンポチェ師著・講談社文庫でございました。

この本には、私たちの死にゆく過程、死後の過程がいかなるものとなるのか、死にゆくものにどのように対峙するべきかなどが、チベット密教の知見から紹介されて述べられているものとなっており、拙生がチベット密教へと入る大きなきっかけとなったものでございます。

また、チベット密教においては、悟りへと向けて、自分の死の過程(中有)を利用する修行もあり、いよいよの際には、楽しみに死を待てるように調えるのでもあります。

もちろん、耐えねばならない苦しみがあるのは同じことながら、その苦しみも、他のための苦しみとして忍辱修行に利用するのであります。

もし宜しければ高僧の死に際するあり方については、「ダライ・ラマと転生」石濱裕美子先生・扶桑社新書をお読みになられて頂けましたら。

また、より詳しくに死を利用した修行の内容にご興味がございましたら、「ゲルク派版 チベット死者の書」ロサン・ガンワン師、平岡宏一先生著、学研文庫をご参照下さいませ。

拙生も、いよいよの時を迎えることになれば、死を利用した修行にて仏道が少しでも前へと進められるように、そして、死に際して、ようやくに、その有り難いチャンスが来たのだとして、歓喜が生じて迎えれるように調えて参りたいものであると存じております。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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死ぬ前に成仏

私も実際には経験してませんから、分かりませんが、死ぬまでは生きているわけです。
余命宣告をされても、最後まで生きているのです。

生きているうちは、生きることをするのだと思います。死ぬことの恐怖や想像を膨らませるより、今この瞬間生きているということに徹して生きるのでしょう。
それが、生きるということのすべてだと思います。
この体が環境と一体となって存在し、「いのち」として大きな働きをしている。人間の感情とは関係なく法の働きにより生きている。そこを追究し真理を求めるのでしょう。できれば死ぬ前に成仏したいですよね。つまり真理を悟りたいものですね。

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おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

邦元さん
ご回答、ありがとうございます。
そうですね、田中さんも懸命に生きておられました。人が死ぬということはこういうことだと、ありのままの姿から学びなさいと教えてくださった内容でした。

なのに、まだ答えが見つかりません。録画して繰り返し見ながら考えているのに、全く浮かんでこないんです。
邦元さんの回答にある「法の働き」というのでしょうか、圧倒的な力を前にしたら人間は何て無力なのだろうと。 世界は動いているのに、何も見出だせなくなったというか。
でもネガティブなものではなく、頭が空っぽの状態、不思議な感覚です。

邦元さんはお坊さんとして仏道を極めたいとお考えとのこと。叶うといいですね。


川口英俊さん
ご回答、ありがとうございます。
おお、発想の転換!「死を利用した忍辱修行」とは思いつきもしませんでした。そういう視点で見れば、また新たな世界が!
やはり体験でしか得られないものはありますから、その苦しみでさえも仏道を極める次の段階だと、有り難いチャンスなのだと受け止めるというのは素晴らしい考えですね。

本の紹介もありがとうございます。早速注文しました。読んでみます。
私には歓喜の心境にはなれそうにありませんけど、「調える」方法を見つけられたらと思います。

それから、ブログ読んでますよ。挿し木、根が出て安定してくれるといいですね。
(*^-^*) ガンバレー

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ