他人の立場になって考えることができない。
閲覧ありがとうございます。
幼少の頃から私は優しいと言われていました。ですがそれは、“もし自分がそれをされたら”と考えて意地悪をしなかった り親切にしたわけではなく、“意地悪はいけないこと”で“意地悪したら叱られる”し、“人には優しくしなければいけないから”というあくまで自分中心な考えからのものでした。
最近、とある出来事がきっかけでその事に気づき、直そうと思ったのですが、他人の気持ちにどうしてもなりきれません。
例えば無配慮な発言をして、“人の気持ちを考えて”と指摘された人がいたとします。私はその無遠慮な発言をされた側に立ってみるのですが、“別にどうでもいいのでは?”と思ってしまいます。しかし、言われた人は“傷ついた”と言っていて、他の大多数の人もその発言を批判している。こんな風に、ズレが生じてしまうことが多々あるのです。そして、よくよく考えると確かにそれを言われると傷つくかもな…と思えてくることが余計に、自分の今までの浅はかさを思いしらされているようでショックを受けます。
他人にわりと無関心なところと、昔から考えずとも褒められていたので考えることを放棄してしまったことが主な要因だと思います。
どうしたら人を思いやれる人間になれますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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傷ついた、はその人限り
なのです基本的に。今日び「傷ついた」と訴える人は多いのですが、それに対しては「ごめんなさい」と謝るよりないです。アッサリと謝る。これ、あなたには経験が少ないかも知れませんが、できるようになると「行動のレパートリーが広がる」と思って、練習してみるといいですよ。「何がどう傷ついたの?」と聞かれて、まともに答えられる人はいません。「誤解された」「攻撃されたと感じている」程度です。つまり、「傷ついた」はその人だけのもの。あなたの言う「自分中心」に過ぎません。
さて「傷つけてはいけない」というポリシー、一応正しいものではあります。セクハラの「親告罪」とか有名になってから、口やかましく言われますね。でも、それを恐れるあまり、別の歪みとか問題が起きやすくなっていると思います。
「人の気持ちになって」は、文字通り行うことは困難…というか無茶な話です。だからこの言葉の意味は「自分の似た経験を思い出す、或いは小説などで読んだものを思い出す」事で自分の行動を制御する…ということです。どこまで行っても「同じ気持ち」にはならないけれど、せめて似た経験として、「こうなのかもなー」と想像する。それにしても言葉にした段階で、かなりディテールは失われます。「悔しかったね」と言っても、同じ悔しさを感じてはいない。「愛してる」「私も」と言ったって、厳密に言って同じ気持ちではないですよね。
ということで、自分なりに想像はするけれど、決めつけはしないという謙虚な態度でいることが、我々にできる精々だと心得ては如何でしょうか。