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悲しすぎて般若心経を唱えられない

回答数回答 3
有り難し有り難し 71

半年前に二十歳の娘が亡くなりました。
娘が元気で笑っていたときに時間を戻したい、生き返ってほしい、声が聞きたい、そんなことばかり思いながら毎日を過ごしています。
死んでしまったと言うことはわかっていますが、それを認めたくない気持ちがあります。
お腹が空いたらいけないと思い、毎日ご飯やお菓子・飲み物はあげています。
退屈しないようにと娘が好きだったゲームやぬいぐるみなどを、遺骨お位牌のまわりにおいています。(納骨はしていません)
けれども、お線香をつけたりお教を唱えることにどうしても抵抗があります。
死んでしまったと現実を思いしらされるようで…

そのような態度は娘を苦しめているでしょうか?

2018年7月28日 10:18

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご自分のお気持ちを大切に

はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。

半年前に二十歳という若さでお嬢さまが亡くなられたとのこと。
どれほどの悲しみ、苦しみ、寂しさ、切なさ、ありとあらゆる感情の渦中にいらっしゃるかと想うと、私も胸が締めつけられるように感じます。

ご自宅に安置したご遺骨に、食べ物やお菓子や飲み物、またゲームやぬいぐるみなどを供えて、一所懸命になさっているご様子。でも反面、お線香を供えたりお経を上げたりすることに抵抗があるとのこと。

これは、ご自身でも仰っている通り「死んでしまったという現実を認めたくない」という心の表れかと思います。私ごとですが、父を突然死で失った時、すでに僧侶であったのに、1年が経つまでは遺影を目にしながら手を合わせることすらできませんでした。また自分自身の中で「あ、受け入れられたな」と思ったのは、三回忌、丸2年が過ぎてからでした。

やや早かったとはいえ、突然だったとはいえ、還暦をすぎていた親の死ですら受け入れるのに長い時間がかかりました。
それが二十歳のお嬢さんともなれば、比較にならないほどのご心痛でしょうし、受け入れられない気持ちになるのも無理のないことと思います。

二十年間、愛情をかけて育んでこられたのです。二十年間、受け入れられなくたっていいじゃないか、と私は思います。いえ、何年経ってもその悲しみは「無くなる」わけではないのですから、お嬢さんに対する愛情とともに、ずっとお持ち頂ければいいのではないかと思います。

亡きお嬢さまは、一切の悩み苦しみが無い仏さまの世界に往って、いつも母である木綿さまを見守っていると私は信じます。木綿さまが悲しんでいる時も、涙を流している時も、もしかしたらテレビを見てフッと笑い声をあげてしまった時も、変わらずに見守ってくださっていると信じています。

回りの人は励ますような言葉をかけてくるかもしれませんが、どうか悲しい気持ちも受け入れられない気持ちも、ありのままに大切になさって頂ければと思います。

★追記
お礼文、拝読しました。
お嬢さんのために、無理のない範囲で、精いっぱいのことをなさってあげてください。
木綿さんのお気持ち、きっとお嬢さんに届いていますよ。

2018年7月29日 7:36
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有り難し
おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

これからもお子様と共に

拝読させて頂きました。
大変辛いおもいをなさっておられることを読ませて頂きました。
その悲しみや苦しみやさびしさはあなたでなければわからないかもしれませんけれども、あなたのお気持ちを心よりお察し申し上げます。

そしてお子様が必ず救われていきますように心穏やかに安らかになられますようにと心から仏様にお願いしてお念仏おとなえさせて頂きます。

南無阿弥陀仏なむあみだふつ

仏様は必ずお子様を正しくお導きなさってくださいます、そしてこれからは仏様の元で心から安心なさってくださいます。

そしてこれからもずっとあなたや皆さんをいつもいつもお見守りなさってくださいます。

あなたとお子様のご縁はこれからも永遠に続くのですからね。

あなたのそのお気持ちもどうかお子様にそのままお伝えなさってくださいね。あなたのお気持ちをありのまま受け入れてくださいます。そしてお子様はいつでもあなたと一緒にいらっしゃいます、あなたに寄り添ってくださいます、そしてあなたをこれからも支えてくださいます。

どうかこれからもお子様と共に心から分かち合いながら皆さんと共にあなたの人生を生き抜いてくださいね。いつもお子様はあなたと共に生きるのですからね。

2018年7月28日 18:44
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして8年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラー...

弔いとは

ご質問を拝読させて頂きました。
亡くなった方がどのような死後を送るのかは正直誰にも分かりません。
しかし、最近思うのが人は亡くなったあとも死者として存在をしているという事です。

存在という言葉自体は、「在ること、居ること」を意味します。
実際に、人が生きている事を存在と言い、亡くなると、存在が消滅すると認識しています。
けれども、ご仏壇に手を合わせているご遺族の先には確かに故人が存在しています。
これが死者としての存在です。
そして、弔いというのは、死者を存在させる行為なのだと思います。

別に、お経を唱えたり、お線香をあげる事だけが弔いではありません。
平素から、あなたが為されている行為も立派に弔いです。

ただ、忘れてはいけないのは、死者を存在させているのは生きている私たちです。
私たちが忘れたり、風化させてしまえば、死者は死者としてすら存在しないようになってしまいます。

最後に、これからあなたがどのように立ち直っていかれるのかは判りませんが、やる気はやらないと出ないように、立ち直るのも本人の意思が必要です。
必ずしも、お嬢様の死を受け容れないと前に進めないわけではないと思います。
前に進んだから受け容れる事も充分に有り得ます。
宜しければ、これを機に仏教を学ばれてみてはいかがでしょうか。
書店などに行かれると一般向けの仏教書も多数あります。
とりあえず、何か始めてみましょう。

2018年7月28日 17:12
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有り難し
おきもち

臨済宗寺院の住職です。皆様の良き御縁となる事が出来れば幸いです。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
娘は苦しんだのだからもう楽になってほしいと思っています。
娘のために私ができることは何でもしてやりたいと思っています。

おっしゃっていただいたお言葉を何度も読み返しています。

ありがとうございました。

「般若心経」問答一覧

学びと般若心経

私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

有り難し有り難し 66
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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 59
回答数回答 4

浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

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浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
回答数回答 3

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