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般若心経について

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たまたま仏教の起こりについて簡単に知る機会があり、葬式でよく読まれている身近なお経でもある、般若心経について興味が沸きました。

そこで、このお経が何を伝えようとしているのかインターネットで調べていたのですが、サイトによって解釈が微妙に異なる様で、本来の意味を理解出来たのか自信がありません。

以下が現時点での私の解釈となりますが、間違いがあればご指摘いただけませんでしょうか?

•自分自身も、他人も、世界そのものも空(実体の無いもの)である
•よって、苦しみや生、死も実在しないものであり、状態が移り変わる過程でしかない
•そう考えれば、思い悩む必要など無い

※現時点でディティールまでの正確な理解は求めておらず、まず、ざっくりとした意味を理解したいと考えています

もし上記の解釈が概ね合っていると仮定すると、葬式で読まれる般若心経は、故人に対してではなく、遺族に対して読まれているものなのでしょうか?
オリジナルの仏教では死後の世界には言及していないと認識しており、故人に対して読まれるというのは違和感があり、上記の発想に至りました。

専門書等を読んでみようかと思いましたが、その道のプロであるお坊さんに聞くのが一番正確かと思い、質問させていただきました。
勉強不足な点は多々あるかと存じますが、可能であればご教示いただけると幸いです。

2024年10月9日 0:09

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お経は解釈せず自己が確かにそうなっているぞ!という眼で読む

般若心経をはじめ、お経は自己の真実の様相を明らかにした覚者=仏が説いた「この世・人間の真実の姿(法・法相)」が記されています。
たとえばレシピや譜面や解説書は実物ではない。音楽なら実演。調理ならば料理。実物にこそ価値がある。音や味や栄養がわが身に充満している状態が現物・現ナマです。お経の現物とは何か?そこに「救い」が現れていることで解釈ではない。読経という行は、生者・死者を超えて最高最上のものを差し上げて共有している姿でもあります。たとえば讃美歌もこの世の法則や先人たちを讃え、現代に生きている人も共に歌って奏でているのですから、遺族とか亡くなられた人とかの隔てはないでしょう。
さらに言えば、お経は読むものではなく行なう、あらわすもの。人間が自己の本当の姿をお経を通して気づき明らかにできる。最高の精神性を見出して心が豊かになって初めて最高のプレゼント=供養ともなるわけです。
だからこそお経を「救いの内容のある最高の形で説ける法の眼を持った指導者」に出会うことこそ大切なのです。本やネットのお経の解説で人は救われないはずです。
お経が誤解曲解された解釈が独り歩きしているのも内容をきちんと会得している人ではなく解釈論に陥った別案件が優先されているものだから救いがない。
以下、引用。
•自分も他人も世界そのものも空(実体の無いもの)である→△
👉自己の身心及びその映し出されは❝流動的であるがゆえに❞いつも変化して固定的ではない=永遠にフレッシュ=いつも救われている状態。実態がないという解釈・解説は多いですが、それは虚無思想に近し。実態が無いから何なのか?SO WHAT?と問いましょう。そういう解釈をする人は事実=法を見ていない。
•苦しみや生死も実在しない~移り変わる過程でしかない
👉今は過程か終局か再出発か最新か?それは屁理屈。人生には現ナマ実在の苦楽生死あり。実在しないならこの論も我々も実在しないから論ぜない。叩かれれば痛いという現実がある。実際に痛い。ならばそれを感ずる者は誰か?と問いましょう。大きな流れの中の一時の様子を✂トリミングした事案に人は生死と名づく。生死がないというのは非思量(思考を用いず)事実を事実の通りに過ごしていると見解や分断が生じない姿。
•そう考えれば悩む必要など無い→✖それは逃避
👉人は自己を見つめて真の様相を明らかにしなければ救われない。

2024年10月9日 10:49
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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