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法華経の凄さがわからない

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今、日本霊異記と発心集をとても面白く読んでいます。その中で繰り返し法華経の功徳が説かれているのですが、どうも僕には法華経の凄さがわからないのです。
僕は浄土宗ではありますが、自分の宗派探しをして浄土宗に辿り着くまでに各宗派のだいたいの教えは勉強したので、例えば般若経の空の思想や密教の壮大さは素晴らしいと思えます。
法華経だけは角川ソフィア文庫の現代語訳を全部読んでも何が凄いのかよくわからない。法華経無内容説というのがあるそうですが僕もそれに加担しそうです。日本霊異記や発心集の時代の人々は法華経のどこにそこまでの尊さを見出したのでしょうか。
法華経を大事にしている方にとっては失礼に感じる質問かもしれませんが、法華経をこき下ろしたいのではなく先人たちの感じた素晴らしさを理解したいと思っての質問ですのでご容赦ください。

2024年5月26日 14:06

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

難信難解だけどあきらめないでくださいね。

花果山 様

『法華経』は諸経の中の王といわれ、さらには随自意(お釈迦様が自ら説いたお経)といわれ、最も大切なお経です。ただ難信難解(信じることが難しく、理解することも難しい)といわれています。また「唯仏与仏」(仏様の悟りは仏様でしかわからない)とも言われています。でもあきらめないでください。
コツコツ正統的な解説書と読まれるのが、良いと思いますので。

日本霊異記では護国と懺悔としての法華経が取り上げられているようですが、
まさにその通りで、国を守ること、そして女性の成仏をはじめ全ての生きとし生けるものがこの世で成仏することが説かれております。

沢山ある中で、キーワードは
「方便」とは何か。
「十如是」から「一念三千」の思想
これには天台の思想の理解も必要です。
さらに、佛様を「久遠実成本師釈迦牟尼仏」として「主・師・親」の三徳を備えた
永遠にいらっしゃる存在として観ること。
常不軽菩薩の「担行礼拝」など、
まだまだたくさんあります。
この枠は1000文字までですので中途半端になりますから
入門的な参考書を上げておきます。ぜひお読みください。
渡邊寶陽著「『法華経』のはなし」(佼成出版社)
橋爪大三郎/植木雅俊『本当の法華経』(ちくま新書)
以上2冊を読んでいただくと理解が深まると思います。
どうぞご縁が続きますように。
合掌礼

追伸:お礼メッセージありがとうございました。はい、日蓮宗の僧侶です。
釋は戸籍上の名前で法号ではありません。
本を求めて、じっくり読んでくださいね。出来る範囲で構いません。難しいところはどうぞ遠慮なくご相談ください。
ちなみに、法華経は、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ、が漢訳されたのですが、サッダルマは「正しい教え」、プンダリーカは「蓮華」、スートラは「経」という意味です。この場合の正しい教えとは、最も大切なという意味ですし、蓮華は、蓮の花が泥の中から出て花が咲くのを喩えて、この世の苦しみの中で仏の悟りに到ることを意味しています。どこか遠いかなたの別の国土の仏様に頼るのではなく、この土の仏様、お釈迦様を本仏として、自力で悟りに向かうのが法華経に込められた意味になります。ということを念頭にどうぞお読みください。合掌礼拝。
字数制限でこの欄ではもう返信できません。天台・日蓮宗変わらず法華経信仰では自力です。メールください。

2024年5月26日 23:30
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有り難し
おきもち

お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリン...
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質問者からのお礼

> 釋 孝修上人
ありがとうございます。教えていただいた本、買います。
釋というお名前から、法華経について質問したのに浄土真宗の方からお答えをいただけたのかな?と不思議に思ったのですが、日蓮宗さんなんですね。法名ではなく戸籍名の苗字なんでしょうか?

重ねてありがとうございます。
天台宗における法華経は自力で悟りを目指すものってのはよくわかるんですが、日蓮宗でも自力と捉えるんですか?
特に法華経に基づく修行(が具体的に何なのかを書いてないのが僕が法華経にピンとこない理由でもありますが)をせずとも南無妙法蓮華経と唱えよという日蓮宗の教えはじゅうぶん他力に思えるのですが。

「般若心経」問答一覧

般若心経(2)

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」   これが第二のキーフレーズです。  「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。  横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。  従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。  「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。  ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。  では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。  「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。  「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。  同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。    「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界  乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」  「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。  以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。  明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。

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般若心経(1)

 今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。  「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。  次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。  「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。  「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。  「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。  色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。  定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。  「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。  e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。  「受想行識亦復如是」  「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。

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無と空について

複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。

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般若心経を学びたい

はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?

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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

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