お世話になっております。 突然ですが、明日、臨済宗のお寺に般若心経の写経体験、座禅体験をさせに行かせていただきます。 ただ事前準備にと思い、般若心経の入門書を購入したのですが、これが法相宗の本だったので、自分が持っているこの本と、明日のお寺様の解釈が異なっていたら、時間も限られているので、ちょっといやだなと思っています。 なのでここで、臨済宗、法相宗、あと、私の亡き祖父が住職をしていた曹洞宗等で般若心経の解釈が異なっているかどうかお聞きしたいのですがいかがでしょうか?
般若心経手帳というのが本屋に売ってて内容が面白そうだったのですが、著書が僧侶の方では無く買おうか悩んでます。 僧侶の方で読んだ方のご意見聞きたく質問させて頂きました。 感想の方よろしくお願いします。
たまたま仏教の起こりについて簡単に知る機会があり、葬式でよく読まれている身近なお経でもある、般若心経について興味が沸きました。 そこで、このお経が何を伝えようとしているのかインターネットで調べていたのですが、サイトによって解釈が微妙に異なる様で、本来の意味を理解出来たのか自信がありません。 以下が現時点での私の解釈となりますが、間違いがあればご指摘いただけませんでしょうか? •自分自身も、他人も、世界そのものも空(実体の無いもの)である •よって、苦しみや生、死も実在しないものであり、状態が移り変わる過程でしかない •そう考えれば、思い悩む必要など無い ※現時点でディティールまでの正確な理解は求めておらず、まず、ざっくりとした意味を理解したいと考えています もし上記の解釈が概ね合っていると仮定すると、葬式で読まれる般若心経は、故人に対してではなく、遺族に対して読まれているものなのでしょうか? オリジナルの仏教では死後の世界には言及していないと認識しており、故人に対して読まれるというのは違和感があり、上記の発想に至りました。 専門書等を読んでみようかと思いましたが、その道のプロであるお坊さんに聞くのが一番正確かと思い、質問させていただきました。 勉強不足な点は多々あるかと存じますが、可能であればご教示いただけると幸いです。
今、日本霊異記と発心集をとても面白く読んでいます。その中で繰り返し法華経の功徳が説かれているのですが、どうも僕には法華経の凄さがわからないのです。 僕は浄土宗ではありますが、自分の宗派探しをして浄土宗に辿り着くまでに各宗派のだいたいの教えは勉強したので、例えば般若経の空の思想や密教の壮大さは素晴らしいと思えます。 法華経だけは角川ソフィア文庫の現代語訳を全部読んでも何が凄いのかよくわからない。法華経無内容説というのがあるそうですが僕もそれに加担しそうです。日本霊異記や発心集の時代の人々は法華経のどこにそこまでの尊さを見出したのでしょうか。 法華経を大事にしている方にとっては失礼に感じる質問かもしれませんが、法華経をこき下ろしたいのではなく先人たちの感じた素晴らしさを理解したいと思っての質問ですのでご容赦ください。
大般若理趣分の理趣分とは何なんでしょうか。 たしかに大般若理趣分の文中に「般若理趣~」とありますがそれが関係しているのでしょうか。
「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」、 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」 この辺は私には全く理解できていませんが、最も注目すべきは、当然、呪文の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 般若心経」でしょう。 花山先生の訳によれば、「往きて彼岸に往き、完全に彼岸に到達したものこそ、悟りそのものである」という意味だそうです。 これは多分、前回お話しした梵天勧請事件の経緯のように、喜びと共に生涯を終える実践をした時のことを表現したのだと思います。 「彼岸」が実在していることを示し、それは梵天勧請事件で生き返ることを三度も拒否したほど素晴らしい眺めのようです。 (完)
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」 これが第二のキーフレーズです。 「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。 横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。 従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。 「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。 ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。 では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。 「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。 「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。 同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。 「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界 乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」 「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。 以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。 明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。
今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。 「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。 次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。 「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。 「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。 「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。 色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。 定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。 「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。 e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。 「受想行識亦復如是」 「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。
大学生です。 最近心が不安になったときなどに、般若心経を唱えています。なぜ般若心経なのかというと、むかし母とお仏壇に向かって唱えていたので、覚えていたからです。特に宗派などはありません。 何度も唱えているので暗唱はできるようになったのですが、意味を特に理解しながらは唱えられていません(調べてもすぐ忘れてしまいます)。 そこで質問なのですが、お経というのは意味を理解しながら信念を持って唱えないと意味を成さないものなのでしょうか。 長い間気になっていたので、教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
毎回相談させていただくたびにありがたいご回答を賜り、本当に本当に感謝しております。 毎日夫とともに朝晩仏壇に向き般若心経を唱えています。 私はお経を唱えるとき、精神というか意識が100%完全にお経に集中できていません。 夫が般若心経を読む脇で手を会わせるのがいつものかたちですが、私は亡き娘を思いながらなので生前の娘のあれこれが頭に浮かんで、 娘との面白おかしかったことを思い出したり、仏前に備えてある供花に目がいけば、花がいたんでるから取り替えなきゃいけない→どこの花屋にいこうかな→そういえばいつもいくあの花屋は…などといろいろなことが頭に浮かんできてしまい、 そうしている瞬間は、仏様に気持ちを向ける大事な時であるのはわかっているに、集中できていないということで、 これでは仏様に失礼で供養になっていないのでしょうか。正しく向き合う姿勢はどのようにあるのでしょうか。ご教示いただき改めたいと思います。
複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。
はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?
以前に「近所の地蔵尊」について質問した者ですが、いつも寺社仏閣や道端の仏様(地蔵尊)にお参りした時に、「見守ってくれてありがとうございます。一日一日元気に過ごせる事に感謝します」と小声で般若心経と舎利礼文・普回向・回向文を読んでるのですが、仏様や神様失礼は無いでしょうか?
私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?
先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。 そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。 私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。 最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。 ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか? 私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。 行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。
いつも丁寧に回答していただきまして、ありがとうございます。 私は小学生の頃6年間毎週お寺に通っていました。日曜学校と呼んでいました。友達と一緒にお経を唱えたり座禅をしたり和尚さんの話を聞いたりととても楽しい時間でした。 日曜学校に通っていたことで般若心経などのお経を唱えることができます。 質問なのですが、 年に1.2回ふとした時になぜか般若心経を唱えたくなります。 どうしてなのでしょうか? そして何もないのに家で1人で般若心経を唱えても良いものでしょうか?
般若心経について質問があります。 般若心経の「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は、「行ける者よ 行ける者よ 彼岸に行ける者よ 悟りよ 幸あれ」の様な意味だと、何かで聞いた事があるのですが、本当でしょうか?
私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌
般若心経が浮遊霊をよせるとは 本当ですか? もし、もらいやすいのであるなら なにを唱えたらいいですか?
初めて質問をさせて頂きます。 心を落ち着かせるために、 自宅で般若心経を声に出して読む事を始めました。(スマホアプリで練習できる物を利用) 家には、神棚はありますが、ご仏壇はないので、ゆっくり椅子に座って、朝に1回読んでおります。 般若心経等のお経は、1日のうち、読む時間や回数 等、決まっているのでしょうか。 1日何回でも、読みたい時に読んで大丈夫でしょうか。 ネットで検索致しましたら、霊が寄ってくるので夜はやってはいけない等が書かれておりました。 本当でしょうか。 よろしくお願い致します。