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般若心経と楽しい思い出

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有り難し有り難し 10

こんにちは。質問を見てくださりありがとうござます。

般若心経では全ては実態がないとしますね。実態がないからこそ苦しいこととか悩みも全部自分の思い込みなんだって思えます。では楽しい思い出や感動した思い出はどう解釈すればいいのでしょうか。

私は以前諸行無常と楽しい思い出について質問させていただきました。その時は、楽しい思い出も諸行無常だからこそ美しいのだしその時を楽しめばいい、それに執着がなくなるとの回答をいただきました。

楽しい思い出や感動した思い出が嘘だなんて思いたくないです。どのように解釈できるでしょうか。

2025年6月23日 12:45

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「般若心経ではすべては実体がないとする」とありますが、その「実体がない(空)」という教えは、“存在そのものが無意味”とか、“思い出が全部嘘”という話ではありません。

むしろその逆で、思い出に執着して苦しまずに、もっと深く味わうための智慧なのです。

仏教の「空」は、「何もない」という意味ではなく、「固定した本質がない」「すべてが関係性によって成り立っている」ということを示しています。

楽しい思い出も、感動した瞬間も、それを感じたあなたの心、そのときの空気、言葉、誰かのまなざしいくつもの“ご縁”が重なって生まれたものです。だからこそ、それは「確かに存在した」けれど、「常に同じかたちで残るものではない」のです。

楽しかったあの瞬間は、もう二度と同じ形では戻りません。でも、それは“幻”だったからではなく、「変わるからこそ、いまがいとおしい」ということだと思います。

たとえば桜の花が美しいのは、その色やかたちのためだけでなく、「散ってしまうと知っているから」こそ、心に響くのではないでしょうか。

楽しい思い出や感動は、「消えてしまう」から価値がないのではなく、「変わっていく」からこそ深いのだと思います。

思い出が「空」であるというのは、それを否定するためではなく、「今の幸せを、未来の不安や過去の執着で濁らせない」ための考え方です。過去の美しい思い出は、今の自分の一部になって生きています。

でも、そこに「戻りたい」「同じ感動がまた欲しい」としがみつくと、今ある出会いや幸せを見逃してしまう可能性があります。だから仏教では、「過去は大切。でも、過去に縛られず、今を生きよう」と説くのです。

あなたが感じた楽しい思い出や感動は、本物です。それを「空」だからと言って否定する必要はまったくありません。ただ、それが「永遠に続くものではない」と受けとめることで、その瞬間が、もっと深く、自分の中に静かに息づいてくれます。

仏教は、感動を捨てる教えではありません。執着に苦しまないための、より自由な感動の受けとめ方を教えてくれるのものです。どうぞその思い出を大切にしつつ、今という新しい一瞬をまた味わっていってください。

2025年6月23日 15:14
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有り難し
おきもち

広島の山あいで、今日も「なんまんだぶつ」とつぶやいています。 浄土真宗本願寺派の僧侶、ケンコウと申します。 日々の中には、言葉にならない思いや、誰にも言えないもやもやがあるものです。 そんな時こそ、仏さまの教えが、ふっと心に灯りをともしてくれることがあります。 この「はすのは」では、あなたの声に耳を傾けながら、一緒に“いま”を見つめ直す時間をつくっていきたいと思っています。 堅苦しくなく、あたたかく、時にゆるく。 どうぞ、あなたのお話、聞かせてくださいね。

視点(没入)によって変わる感情

例えば、私は家で虫をみつけたらできるだけ殺さずに、ホウキとチリトリで捕獲して窓から逃がすようにしています。
一方で、市街地にクマやサルが出たと聞いたら、通学する子供達が危険だろうなとか考えて、早く駆除した方が良いのではないかと思うこともあります。
私という同一人物の中でも、虫1匹も殺さない慈悲の視点もあれば、動物の被害に遭う人間側の立場で駆除を願う視点もあります。
その都度その都度の視点、その視点への没入感によって、喜怒哀楽が変わるのです。
さまざまな縁(原因や条件)で思考や感情が変わる。
ですから、結局はその都度その都度の自分の「趣味の世界に過ぎない」(色即是空)のです。
しかし一方で、そのときの自分にとって「趣味として好きでやっているんだからそれはそれで良いじゃないか」(空即是色)とも言えます。
楽しかった思い出も、たまたま条件(視点・没入感)が整って感動しただけに過ぎないかもしれませんが、当時の自分にとってそれが事実だったんだからそれはそれでまぁ良いじゃないかと、没入していた当時の視点をまるっと許してあげても良いのかもしれませんね。
私達は、細胞膜によって一時的に切り取られた地球の一部であり、切り取られた形が変われば価値観も変わるでしょう。
極楽浄土の住人には、自分と他人を差別する感覚が無いのだそうです。
極楽浄土の菩薩達は、細胞膜が細胞膜にすぎないと悟っておられるのかもしれませんね。

2025年6月24日 6:33
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

釋兼高様

ご回答ありがとうございます。思い出や感動を本物だとおっしゃっていただいてとても嬉しかったです。空とは虚しいものではなく、むしろその思い出をより美しいものだと解釈することができるのですね。過去の思い出もその時の縁があってあるものと思えば執着することなく楽しめるんだと前向きになれました。ありがとうございました。

願誉浄史様
ご回答ありがとうございます。確かにある物事も時と場合によればよく見えたり悪く見えたりしますね。結局自分がどう解釈するかかもしれません。そういう意味では、楽しい思い出もその時たまたま縁が重なって楽しめた、すごく愛おしいものかもしれませんね。楽しい思い出をより美しく見ることができました。ありがとうございました。

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