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他力念仏と自力念仏の違い

回答数回答 4
有り難し有り難し 91

親鸞の教えは他力念仏を唱えれば救われる、という教えでしょうか?
心を込めて念仏するのが他力念仏ですよね?
信心決定しなくても心を込めれば他力念仏になるのですか?
「心を込める」の判断はどう決定できるのでしょうか?
人間の念じ方は主観的でピンキリですが、何を基準にしているのか分かりません。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

念仏は念仏。

”人間の念じ方は主観的でピンキリですが”
”何を基準にしているのか分かりません”
誠におっしゃるとおりだと思います。

”親鸞の教えは他力念仏を唱えれば救われる、という教えでしょうか? ”
そうですね。

”心を込めて念仏するのが他力念仏ですよね? ”
”信心決定しなくても心を込めれば他力念仏になるのですか?”
???

定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ

親鸞さんは、このようにご和讃で教えてくださいました。

たしかに昔から色々な議論がありますが・・・とりあえず、自力、他力という言葉は、どうしてもちょっと独り歩きしがちです。どっちが良いとか悪いとか、どのように唱えなくてはならないのか、どうかあまり深く考え過ぎないで、まずは素直にお念仏してみてください。あなたの唱える念仏が、たとえ自力だろうと作善だろうと、念仏は念仏です。法然さんの唱えた念仏も、親鸞さんが唱えた念仏も、そしてあなたが唱える念仏も、仏様から賜った同じお念仏です。そんなに面倒なものではありませんよ。

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自然と「ありがとう。」ーそれが他力の念仏です。

こんばんは。亀山純史と申します。

人から親切にしてもらったら、「ありがとう。」と言いますよね。そのとき、どんなことを考えて「ありがとう。」と言っていますか?『心を込めて「ありがとう。」と言わなければ。』などと考えて言っていますか?そんなことはありませんよね。自然と「ありがとう。」という言葉が出てくるでしょう。それが他力の念仏です。

でも時には、『この場合には、「ありがとう。」と言っておいた方がいいだろう。』などという思いを持って「ありがとう。」と言うときもあるでしょう。そのときの「ありがとう。」が、自力の念仏と言えるのではないでしょうか。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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自力・他力について親鸞聖人がどのようにおっしゃっているかをまずはきちんとおさえてみましょう

顕浄土真実行文類二(教行信証・行巻)
「他力と言うは、如来の本願力なり。」

親鸞聖人御消息集
「ただ、詮ずるところは、他力のようは、行者のはからいにてはあらずそうらえば、有念にあらず、無念にあらずともうすことを、あしうききなして、有念無念なんどもうしそうらいけるとおぼえそうろう。弥陀の選択本願は、行者のはからいのそうらわねばこそ、ひとえに他力とはもうすことにてそうらえ。」

尊号真像銘文
「信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義なきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。このゆえに、おのおの のはからうこころをもったるほどをば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。」

一念多念文意
「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」

つまり、諸師がおっしゃるように念仏は念仏なのです。どのようなお念仏も他力念仏です。しかしその念仏をはからう私の心はみな自力です。私の側はみな自力。仏の側が他力。

心をこめようが、有念だろうが無念だろうが、有心だろうが無心だろうが私が「こうではないか?」とはからうものはみな自力。どんな心でもみな自力。

念仏してスッキリするはずだ
何か大いなるものに救われた実感があるはずだ
自身の身が愚かなものとして省みられるはずだ

とか色々な「はからい」の中にあることと思います。それはそうなのです。私もあなたもずっとはからうのです。
その私が念仏という確かなものに出会えたということが喜びなのです。(喜ぶのは私の側の自力ですが)

歎異抄
「ただ念仏のみぞまことにておはします。」

>人間の念じ方は主観的でピンキリですが、何を基準にしているのか分かりません。

おっしゃるとおりです。そうしたことが問題とならなくなる。あるいは、いつまでたってもそうしたことを問題としている自分があきらかになる。

それが「ただ念仏」の有り難さではないでしょうか。

南無阿弥陀仏

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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あなたの思い次第です

拝読させて頂きました。

あなたがどうか仏様私をお救いください、仏様の極楽浄土にお導きくださいと心からお願いして、お念仏おとなえするお気持ちがあるかどうかだと思います。

仏様に全てお任せなさりどうか仏様お願いしますと信じ、お念仏おとなえするかどうかかと思います。

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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「念仏について」問答一覧

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3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

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浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

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