行住坐臥の念仏
日頃から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えています。しかし、ずっと声に出していても息が足りなくなって疲れたり、また声に出さなくても、勉強をしているときなどは心のなかで唱え続けることもなかなか出来なかったりで、法然上人の言う行住坐臥の念仏にはなかなか達しません。
一念で往生が决定するのは存じていますが私のように自力の念が絶えない者は常に念仏とともに有りたいと思ってしまいます。
農作業などだったら文字通り常に念仏をすることができたのでしょうが、現代における行住坐臥の念仏とはどんなものであるべき、あるいはあり得るでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
三不信の凡夫の自力は役に立たず
ご相談拝読しました。
自力の念が耐えないとおっしゃることから問題は自覚されていることとお察しします。
すなわち絶えず念仏はしていても「仏を念じている(=拠り所とする)」のではなく「仏を念ずる自分を念じている(=拠り所とする)」ということです。
念仏が信仰の手段ではなく結果として自ずから現れ出るものでもあるならば、回数等へのとらわれは薄まるのではないでしょうか。
よろしければ下記なども参照しつつ
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge58.html
聞法を続けてみましょう。
南無阿弥陀仏
念仏を心の主人、来客(雑念)は必ず帰る
法然上人は、念仏を心の家の主人にしなさいと言われました。
心の家には、念仏以外の妄想雑念の「お客さん」が毎日やって来ますよね。
でも、お客さんは必ず帰っていなくなり、また主人(念仏)が落ちついていられる時間が戻ってきます。
私たち凡夫の心は、猿が木の枝から枝へ飛び回るように落ちつきがないのです。
それは、凡夫だから仕方ない。
凡夫から妄念を取り除くことは、人から目や鼻を取るような非現実なことなのです。
だから、念仏以外の妄想雑念の時間があっても大丈夫です。