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行住坐臥の念仏

回答数回答 2
有り難し有り難し 27

日頃から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えています。しかし、ずっと声に出していても息が足りなくなって疲れたり、また声に出さなくても、勉強をしているときなどは心のなかで唱え続けることもなかなか出来なかったりで、法然上人の言う行住坐臥の念仏にはなかなか達しません。
一念で往生が决定するのは存じていますが私のように自力の念が絶えない者は常に念仏とともに有りたいと思ってしまいます。
農作業などだったら文字通り常に念仏をすることができたのでしょうが、現代における行住坐臥の念仏とはどんなものであるべき、あるいはあり得るでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

三不信の凡夫の自力は役に立たず

ご相談拝読しました。

自力の念が耐えないとおっしゃることから問題は自覚されていることとお察しします。

すなわち絶えず念仏はしていても「仏を念じている(=拠り所とする)」のではなく「仏を念ずる自分を念じている(=拠り所とする)」ということです。

念仏が信仰の手段ではなく結果として自ずから現れ出るものでもあるならば、回数等へのとらわれは薄まるのではないでしょうか。

よろしければ下記なども参照しつつ

http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge58.html

聞法を続けてみましょう。

南無阿弥陀仏

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

念仏を心の主人、来客(雑念)は必ず帰る

法然上人は、念仏を心の家の主人にしなさいと言われました。
心の家には、念仏以外の妄想雑念の「お客さん」が毎日やって来ますよね。
でも、お客さんは必ず帰っていなくなり、また主人(念仏)が落ちついていられる時間が戻ってきます。
私たち凡夫の心は、猿が木の枝から枝へ飛び回るように落ちつきがないのです。
それは、凡夫だから仕方ない。
凡夫から妄念を取り除くことは、人から目や鼻を取るような非現実なことなのです。
だから、念仏以外の妄想雑念の時間があっても大丈夫です。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ