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心のありどころ

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すみません、文章をまとめるのが苦手なのと、心の整理が付いていないので、文章がぐちゃぐちゃになるかもしれません。

私は、幼いころからいじめにあってきました、そのためか疲れたりすると自傷感情があふれ出てしまいます。
学生時代に窓か飛び出して頭から庭石にだいぶしたいと思ったこともありました。

仕事で失敗した帰り道川沿いの道を通りながらハンドルを川の方に回せば川に落下できるなと思ったこともあります。

幸い友だちや両親の顔そして、いつか素敵な人と出会えるかもしれないと思って思いとどまってきましたし、リストカットにも走らないで押さえてきました。

そして、こんな思いをする子どもを一人でもを少なくしたいと思い、ボランティア活動をしておりました。

親御さんから「ありがとう」と言われるといじめられて冷たい言葉が多かった反動か、うれしくなるのですが。

その反面自分がいじめられていた時にボランティアさんに会いたかったと言う願望を自分がやることで心を埋めている自分気が付きます。

さてこうしていると、人のためにがんば幸せを感じる一方で、時として、自分自身が救済されたい願望が心の中で暴れだします。

他の人が笑顔になって幸せを感じているはずなのに、私自身が甘えて励ましてほしいと思うことが出てきてしまいます。

いじめられていたころ、いつの日か恋をするかもしれないと自分を励まして来たけど、恋など夢また夢と言う状況も拍車をかけている気がします

この気持ちをどのように受け入れていけばいいでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分をこそ救わずしてどうする

あなたがあなたを救い得ずして真の救いはありません。
「助かりたい」「救われたい」
私の叫びはそこでした。
死のうと思うほどに考え地獄に浸っていた学生時代。
いよいよ死のうかと思った時、血を吐いて死ぬのが怖くなりました。
さっきまで死にたいって言っていた「わたし」は吹っ飛び、「いのち」が主人公として、死を恐れていました。
「助かりてぇ」「救われてぇ!」
怒りにも似た、もがきにも似た心の奮い起こし。
それが仏教の菩提心です。悟りを求める心です。あなたはそれを持つべきだと思う。
自分から救われるにはどうすればよいかをお話ししましょう。
あなたを苦しめているものが「自分の思い」であることを覚するのです。
相手、出来事、状況、記憶など、外のものがあなたを苦しめているのではないのです。
その直後に二次的に想起させている自分の思いが自分を苦しめていることを明日、よく観察してみてください。ほど、習慣的になっていると思います。
自分が自分をイジメて追い打ちをかけているのです。
次の言葉を分るまで唱えてみてください。
「自分が後から思い起こした思いで自分を苦しめている」
「一次的に起きた思いは自分を苦しめない。二次発生で生じた思いで心の二次災害を引き起こしているのが私だ」
それが分れば、あなたは自分の思いで自分を汚さなくなる。
自分が自分を汚すことが無くなればあなたは寂滅の人になる。
思いに動じない者こそ、不動心、安心、安穏を得たものである。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

きっと自分をいじめることでリストカットに近いことをしているんだと思います。

できるだお教えいただいた呪文をとなえてみようと思います。

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