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不幸な人は不幸になるように生まれてきたのでは

回答数回答 3
有り難し有り難し 234

不幸な人は、遺伝子や家庭環境により不幸になるのは確実です。
例えば先天性の障害などは不幸に生まれる運命だったと思います。

よくお坊さんは、本人の意識とか本人の心の持ちようと言います。実際は先天性の障害になりたくないでしょう?
何故か日本のお坊さんは結婚できますが自分の子供が先天性の障害があったら可哀想だと思いませんか?少なくとも苦しむのは必然です。
そこから悟ったとしてもやはり苦しいのは変わりがないです。

幸福感は得れますが不幸は変えることはありません。
苦悩は不幸であり、それは考え方などで変わるものではありません、痛みは痛みなのです。
またバリアフリーは増えてきましたが身体障害の方への理解を示すだけで精神障害や知的障害や発達障害などに理解を示す人は少ないです。また医療職の人でも精神障害や発達障害のことを詳しく知ってる人はいません。

そういうものなのです。

これは一例です。

容姿もそう、遺伝子で知能も、肉体の大きさ筋肉量やらなんやら。性格だって決まります。
ブサイクが楽しく恋愛できますか?少なくとも苦しむでしょう。
明るいポジティブさも脳の特性で決まります。
さて貴方は明るければ恋愛で苦労しないと思ってませんか?それは生まれつき決まるのです。

家庭環境もそう、DVや虐待家庭や貧乏やらなんやら。
不幸は生まれつき決まってます。

貴方が仏教に惹かれたのも坊さんになったのも生まれつきです、生まれつきそういう家庭環境があったから、いやそうじゃないとしてもそうさせる因子があったからです。

不幸は決まっているのです。
人間関係でくるしんでるひとは、そもそも傷つきやすいHSPだったり、理不尽な環境に入らざる得ない家庭環境に生まれたり、人間関係の構築能力も脳で決まります。

恋愛で苦しんでる人は、容姿が先行します。ブラッドピッドの顔に生まれてたらそもそも恋愛で苦労しないのです。

仕事の悩みも殆ど知能です。
学歴があればハーバードに行けてればそもそも仕事の悩みなんて屁なのです。就活、転職、起業、なんでもござれです。
知能が高いと仕事もできます。

つまり私達の不幸量は生まれつき決まってるのでは?

隣の芝は青いなんて大嘘で。

運が良い人は不幸を抱えてないのは事実。
幸福な奴は幸福。
得たい物を生まれつき得てる人はいる


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不幸は生まれつき決まっていません!絶対に!

ニーチェさん

読ませていただきました。
ニーチェさんの気持ちはよくわかります。
いくら努力しても確かに才能に恵まれたすごい人には絶対に勝てないです。

私もかっこよくて頭の良い人を見たら悔しい気持ちになります。さらにその人の背が高かったらもっと惨めな気持ちになります。

しかし、ひとつ確認させてください。
幸せは人と比べるものなのでしょうか?
またそんなすごい人と比べたところで何の意味があるのでしょうか?
私はブラピのようにイケメンでもなく、イチロー選手のように野球も上手くありません。
ゾゾタウンの前澤社長のようにお金を持ってもいません。ニーチェさんから見たら私も不幸な人に見えるかもしれません。
しかし私は、自分では幸せだと思っています。
幸せはいつも自分が決めるものです。
私はそう考えています。

仰るように、残念ながら心の持ちようや、考え方だけで幸せを掴むことはできません。

でもね、今よりマシになることは出来ます。
それは、まず行動することです。
幸せそうな人をよくよく観察してください。
「俺はあいつと比べて不幸だ」と嘆くより前にみんな行動されています。幸せそうにしている人は、口では無く行動が先なんです。

幸せになるには、もちろん運や環境、遺伝も必要かもしれませんが、ただ待ってるだけで幸せになる人間は見たことがありません。
どんな人でもみんな努力し、幸せを掴みとっています。
何もせずに幸せには絶対なりません。

【追加】
ニーチェさん
返信ありがとうございます。
不幸も比べるものでもありません。(人と比べたくなる気持ちはよく分かりますが)
他人が決めつけることでもありません。

障がいの有無に限らず他人の苦労は私にとって未知の世界です。
本当の意味で理解することは難しいです。ここで語るのもおこがましいことかもしれません。

しかし、障がいを持つかたを不幸と言うのは違う気がします。障がいが不幸なのではなくて、周りの目や、「障がいは不幸だ」という社会が
生きづらくしているのではないでしょうか。

ニーチェさんの苦労も私の苦労も他の人には伝わらないと思います。
ましてや、人から不幸だと言われることも違います。
だとしたら人それぞれ自分に与えられた環境の中で精一杯生きていくしかないように思います。

結局、幸か不幸かは自分次第です。
私はそう思っています。

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慶成(けいじょう)
広島市内中心部の寺町・品龍寺の副住職をしています。 2017年まで東京の...
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無有代者-誰も代わる者なし

ニーチェさんこんばんは。

いつも思いのたけを素直な言葉でお書きいただき有難うございます。疑問や思いはごまかさずぶつけていただいてかまいません。そしてそれだけで終わらせずしっかりと考えていきましょう。

世の中には色んな人がいます。色んな縁があります。

でも、ニーチェさんはニーチェさんとして生まれたのです。そこからしか始まりません。「こういう場合もある、ああゆう場合もある、それらは不幸でしょう?」という話はもっともですが、ニーチェさんがそれらの人ではなくニーチェさんなのです。

その事実から目をそらさないようにしましょう。

二―チェさんはどんなにかご自身が生まれいただいた縁がいらないのかもしれません。しかしどんなにいらなくともその縁を私がもらうことはできないのです。

いただいたご縁を受け入れられない限り人生は空しいものになってしまいます。それは厳しい現実です。

だから許すことができなくても、憎んだままでもかまいません、愚痴をはくだけでもかまいません。ずーっとそうしていてもかまいません。

でも全ては無常です。

いつかそうもしていられなくなる時がきます。

苦しい事も、いや、たとえ楽しい事ですらも、徹頭徹尾最後までやり切ることができないのが人間です。

今はそのままのお考えでもいいのではないでしょうか?おっしゃる通りそれもいただいたご縁でしょう。

ブラピが努力したのかしてないのかわかりませんが(いやきっとしたでしょうが)、そんなことはニーチェさんの本当の幸せとは関係ありません。(比べることによって生じる相対的な幸せとは関係しますが。)

配られたカードがフルハウスの人もいればワンペアの人もいるかもしれません。しかしその考えが成り立つのはポーカーというルールを設定した時です。ルールは社会に決められているように感じるかもしれないですが、社会の影響を受けつつも自分のルールは結局は自分の価値観です。ポーカー的には手札はブタでも、私の価値観で絵柄や数字自体を楽しんでいくことはできます。

私もにも生まれ持った悲しい縁があります。でもいらないとは言えないのですね。いただいた限りは大事にして活かさない限りはずっと空しいままです。

いただきものは大事にしましょう。それが他の誰でもないニーチェさんなのですから。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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過去の質問も拝読しましたが、まあ生まれ持ったスペックの中で、いかに楽しく幸せに暮らしていくのか工夫して生きていこうとするのが仏教だと思うよ。比べたらきりがないし、比べる事自体無意味だもんね。
あなた自身は気づいていないみたいだけど、文章力とか洞察力とかたいしたものだと思うよ。もっと自信をもって。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

幸せは比べるものではないと思います。
不幸なのは比べるものだと思います。
スルーされてますが先天性の障害を持つ人などはやはり不幸が多いです。
いくら努力しても、そもそものその変えようという行動にありつける思考が先天的にままならない精神障害や発達障害の方なんて星の数ほどいます。ちなみに精神障害や発達障害は知能に問題があるわけではありません。

そういう人達は確実に他人よりも苦しみます、今の現状を変えようともがいてもやはり苦しみます。
待ってるだけじゃいけないと、行動して苦しんでる数多の障害を持つ方なんて沢山います。

そんな中で今現状を変えるだけで幸福になれるとは思えません。
またやはりブラピやイチローを尊敬してるようにその人達が何かを先天的に得て幸福を得ているのは実感されてるでしょう?
ブラピが何の努力をしたんですか?
ブラピだけとはいいません、世の中沢山のイケメンや美人がいます。
その人は不幸はかなり回避できます、何かを努力しましたか?
やはり私はこれも仏教的な考えではやはり不幸は決まっていて、この世界の苦しみというのは個人個人によってレベル分けされてるのではという仮説を立てています。

因みに私は発達障がい(アスペルガー症候群 言語性知能優位)を持っています。発達障がいを他の目に見える障がいに比べて下に見ると思いますが詳細はDSMをご覧ください。

まず先入観で障がいを私は持ってないと思われましたよね?そこらへんがまず苦しいです。私が障がいを持つ人を見下した不幸だ!と思い込んでると思われてますよね?そこらへんの先入観が辛いです。

障がいは苦しいです、死ぬほど辛いです。
私がいつも享受しているものです。
社会が悪いというより私は遺伝子が悪いと思っています。
社会がなぜ障がいに対して冷たいかというとそういう特性を脳が植え付けてる、つまり遺伝子の問題ですよね。私達は悪くないのです。
だからそういう異物を勝手に生み出し、社会はそれを会合しないようにする仕組みがあることに私は不幸なんて先天的に決まっていると思える根拠であります。

比べるものではないかもしれませんが歴然も差があるのは、事実です。

ダウン症に生まれたら、四肢が無かったら、知能が低かったら。
手に入れるべきものが手に入りません。
肉体的にも苦しいです。
病院代もかかります。
恋人もできない場合がとても高いでしょう。

生まれてすぐに、高知能に生まれて、高いレベルの容姿に恵まれた人は幸福の因子を手に入れます。
社会に会合される以外にも沢山の肉体的な恩恵が得られるでしょう。

それらはうまーく調整されてるのではないですか?
不幸な運命の人は、不幸のまま何十年も苦しんで死ぬ時まで不幸なのだと。

仏教的にはこの世は苦しみだ!と言いますがその苦しみは人によって差がありすぎるという事です。

毎日、先天的に疼痛を持つ人の苦しみは比べるべきではないのですか?
生まれて、すぐ死ぬ人がいたとしてその人の苦しみは同じなのですか?比べちゃダメなのですか?

私はそれらの事実をなんとなくフィーリングや感情で否定するのがとても残酷に思えます。

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