回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
選択肢の数を少なくしていくことです。
物を買うとき、人を選ぶとき、発言をするとき、意思を伝えるとき。
などなど、生きている中で選択肢の連続です。答えが多く迷いが生じます。
たくさん答えが出る中で、一番目に出した答えを信じて決断していくことです。
二番目や三番目に出した答えを決断し、のちに失敗すると「あ〜しとけば良かった」と、後悔が生まれます。
一番目に出した答えで失敗したとしても、自分を信じて出した答えだから、これで良かったんだと納得に変わります。
判断=頭でする。
決断=心で決める。
これを念頭に置いておくだけで、少し自分の意思がブレなくなっていきます。
よき人生を心から応援しております。
合掌
人生の嗜み
前回の「敗退を楽しむ生き方」のご質問を拝見してピンときたのですが、コレすごく共感します。
オンラインゲームやりながら人間観察しててよく思うのですが、楽しむのが上手でゲームを遊んでいる人と、楽しむのが下手でゲームに遊ばれている人がいます。
楽しむのが上手い人は、上手くクリアできずに何度も何度もやり直す『試行錯誤そのもの』を楽しんでいます。「鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス」的に。
だからなかなかクリアできなくても楽しいし、クリアできたらできたで楽しい。どちらに転んでも常に楽しんでいます。クリアに限りませんね。対戦モノの勝ち敗けでも一緒です。
そして本人がとても楽しんでいるから、一緒にプレイするこちらも心地よくなってくる。
でも、楽しむのが下手な人は上手くクリアできないとすぐに「クソゲーだ!」と腹を立てます。プレイの結果を自分の存在価値に投影しちゃってて余裕がないから。
このタイプの人の哀れなところは、クリアしたり勝ったりしないと喜べないくせに、勝ったら勝ったで相手を見下したり、クリアしても誰々が足を引っ張った!と腹を立てたりして結局、自分で喜びをドブに投げ捨てるようなことをしている所です。
だからなかなかクリアできなくてもイライラしているし、クリアしたらクリアしたで何かしらイライラすることを探し出してイライラしている。「鳴かぬなら、みんなタヒねよ、ホトトギス」的な。
そんなにイライラするくらいなら、やらなきゃイイじゃんと色んな人に言われているけど、やめられない。中毒的に続けてしまう。正にゲームにやらされているような、ゲームに遊ばれているような状態。
こういう人と一緒にプレイしてると(´・ω・`)になってきて、そっとフェードアウトしちゃいます。
人生の縮図だなって感じます。
こうして考えてみると、『嗜む』って良い言葉だなと思いました。
心得はある。でも必ずしも達者ではない。だから楽しい。
質問者からのお礼
法源 様
お返事、有難うございます。
1番目の答えを胸を張って断言できるように頑張ります。
大慈 様
お返事、有難うございます。
「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」的に生きていました。仕事も。訳が分からないから楽しい。クリアできたら喜び倍増。
いつの間にか、喜びをドブに捨てていたかもしれません。クソゲーでした。
思い出しました。
有難うございます。