幸せを求めることととはどういうことですか?
お忙しいこととは存じますが、質問させていただきます。
「足るを知る」「今ある幸せを大事にする」という言葉をよく耳にします。とてもよい考え方だとは思うのですが、その反面、「今ある幸せで満足する=これ以上の幸せや向上を求めてはいけない」と言うことなのかと考えてしまいます。
もっと上を目指したい、という気持ちもまた欲には違いないと思いますが、世間も成長や発展をよいこととしています。また、生活の状況が変化していくなどという中で、それまでの幸せでは幸せと言えなくなることもないわけではないと思います。
反面、「贅沢を言ったら罰が当たる」「安楽に甘んじていたら不幸になる」とも言います。ということは、人は今の状況を幸せだと考え、常に安心や幸せを感じないようにし、その上で更なる幸せを求めることもせず、現状を維持することが正しい生き方なのでしょうか。夢を叶えたいという思いすら、悪いことなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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幸せ認定しない
世の中には仏教由来だけど時代と共に意味が変わってしまっている言葉がたくさんあります。ご質問文の言葉は苦労信仰であり、仏道ではなく武士道に近いです。武の追求によって自分を鍛錬し、幸せを守るという発想です。
だから「足るを知る」「今ある幸せを大事にする」「贅沢を言ったら罰が当たる」「安楽に甘んじていたら不幸になる」→あえて質素な生活をして清貧に暮らし、鍛錬するという感じです。
あえて清貧に生きる。それが武士道の足るを知る。
じゃあ仏道ではどうか?
仏道は中道です。贅沢と清貧の真ん中を取りましょう…という話ではありません。
本当に不平不満を生んでいるのは、贅沢や向上そのものへの執着ではなく、「贅沢や向上できなければ不幸」「贅沢や向上をしてしまったら不幸」という哲学への執着だと仏教は考えます。
どんなに昼が好きでも夜は来ます。どんなに夜が好きでも昼は来ます。そこで昼と夜どっちが幸せか?なんて哲学していては、永遠に迷い続けます。それと同じです。そういう哲学の螺旋から抜け出しなさいというのが仏道です。
人は本来、爽やかな風が肌を吹き抜けるだけで幸せを感じるように生まれています。陽の暖かさ、月夜の明るさ、雨の音、霧の涼しさ…幸せとは本来、人には解決のしようがなく、ワタシが生まれる前からそこら中にあるものです。
そこに気付いた人は、向上したら向上したなりに喜びを得、現状のままなら現状のままなりに喜びを得、苦労の中にも全心全霊で生きられるでしょう。その自由自在な心が仏道の足るを知るです。
何が幸せかという条件に照らし合わせて、心の支えにすることが世間の安心(あんしん)。
何が幸せかという条件に照らし合わせず、心を自由にすることが仏教の安心(あんじん)。
2種類の【満足】
生きとし生けるものは、すべて”満足”つまり幸せを求めて生きている。
①【状況の満足】
不満が満たされると【満足】に至る。しかしながら、この満足は縁(条件・タイミング等)によってコロコロ変わり、一瞬で不満に転落することもある。
②【存在の満足】
あなたの状況がどんなふうに変化しようが、どんなに不本意な状況に陥ろうが、決して変わることのない満足がこの”存在そのものへの満足”です。
たとえば、南無阿弥陀仏は②を満たすとっておきです。
幸せを求めることが良いのか悪いのかというより、そもそも”幸せ”とは何なのかを改めて考えてみるのもいいかもしれませんね。決して今より余裕のある生活やキャリアアップが一概に悪いとは言いません。しかしながら、仏教が求める”幸せ”とは、どこへ行ってもいつまで経っても色褪せることのない無上の幸せです。ちょっと次元が違いますね。
かつて、バラ色でウハウハな生活つまり①【状況の満足】では安心できなかったゴータマシッダールタ(のちのブッダ)は、我々が喉から手が出るほど欲しいアレもコレも全部棄てて出ていった。さて、あなたはこの出来事をどうお考えになりますか?
質問者からのお礼
淨流寺転落院 様
ご多忙中にもかかわらず、お時間を割いていただいてありがとうございました。
そもそもの「幸せの定義」ができていなかった気がします。世俗にあっては周りからの情報にどうしても流されやすく、例えば一昔前なら「女は結婚するのが幸せ」のような、世間からの定義づけに自分を当てはめてしまいがちです。どうしても目先の生活に直結するので無視もできず、本質の幸せからは遠ざかってしまうのですね。お釈迦様は衆生の迷いを知りつつさらに先へゆかれた御方。少しでもその境地に近づけるよう生きていきたいと思います。ありがとうございました。
大慈様
お忙しい中、わかりやすくご回答くださいまして、ありがとうございました。
なるほど、武士道の考え方ですか……。仏教の考え方とはまた方向性が違うのですね。現状をあるがままに見る、ということでしょうか。心の鍛錬が必要な境地ですが、自由な心で生きられるよう、中道の幸せが理解できるよう、気持ちを変えていけたらと思います。とても楽になりました。ありがとうございました。
鳳林寺 光禪 様
お忙しい中、ご回答くださいましてありがとうございました。貪と向上心の境目が、衆生には大変難しいものなのだと心得ます。向上心もちょっと間違えたら執着へ変わってしまいますし……。ですが、そもそも簡単に答えなど出るものではないのでしょうね。向上心であると思えるうちは安心して頑張っていこうと思います。ありがとうございました。