馬鹿にされるということ
よく馬鹿にされ傷ついたり、気にしてしまうのは
自分自身が自分を馬鹿にしているからだつまり自己肯定感の問題
であるという話をよく聞きます。
本当にそうなのでしょうか。やっぱり自分に自信がある人であっても
馬鹿にされることは不愉快なことに決まってますよね。
本当の自分や他人から見た自分と自意識との乖離があると
認めざるを得ないときだってあると思います。
上手な受け止め方、あしらい方を教えていただけると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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みんなにデクノボーとよばれ...
こんにちは。亀山純史と申します。
「馬鹿にされる」ということで思い出すのは、宮沢賢治の「雨にも負けず」です。
「雨にも負けず」の最後は「みんなにデクノボーとよばれ ほめられもせず くにもされず そういうものに わたしはなりたい」と綴られています。「デクノボー」とは、「役に立たない人」、「くにもされず」とは、「相手にされない」ということなそうです。「そのようなものに、自分はなりたい」と賢治は言っています。ですから、「みんなにデクノボーとよばれ」とは、「みんなから馬鹿にされ」と言ってもいいかもしれないと、思っています。賢治が理想としていた境地は、私たちが日常的に人を評価するその基準で測れるものではないのでしょう。
人が他人を「馬鹿だ。」というとき、その基準は、知識の有る無し、損得勘定、頭の良し悪し、などでしょう。それに対して、賢治が生きようとした仏教の生き方は中道(有無や損得といった二極化される世界を離れた生き方)です。ですから、ここに挙げた基準はそのどれもが、仏教のものの見方とは異なるものなのです。
私たちは宮沢賢治のようにはなれないかもしれません。しかし、少しでも宮沢賢治のように「みんなにデクノボーとよばれ ほめられもせず くにもされず そういうものに わたしはなりたい」と思えるならば、「馬鹿」という言葉も、浮世のたわごととして、聞き流すことが出来るのでしょう。
以上が私からの回答になります。具体的な処方箋にはなっていませんが、少しでもお役に立てればと思い、回答させていただきました。
勘繰らないこと事実に目を向けること
バカにされたとしても、それを気にしたとしても、全て価値観の問題ですよね。相手の価値観と自分の価値観が一致していたらショックを受けたり、改めようと思ったりすることになるのでしょう。
価値観が違えば問題にもならないのではないですか。
実際なんと言われようと現実がうまくいっていたらきにすることもありません。
何より信じられる事実でしょ。
つまり事実は嘘をつかないのですから、事実を見て判断したら良いのでしょう。受け手がバカにされたと思っても、相手の人にとってはそんなこと思ってもないという事もあります。
勘繰らないこと事実に目を向けることが何よりの救いの道です。