気づくほうが傷つく
例えば、小学生の頃。クラスの子とケンカをした時に、そのあと自分が「あれは私が悪かったかもしれない」と思ってクヨクヨしており、かたや相手はそんなことは一つも考えずに私への怒りしか見せないようなことがあってから、「自分の非の可能性を感じない人間といくらケンカしてもムダなのはずるいではないか」と考えるようになりました。いい年齢になってからも、その状況にあてはまることを経験しては 小学生の頃の自分から考えが変わっていないことにハッとさせられました。
子どもじみたの「ずるい」という感覚を拭いたいと思っているのですが、どういう心構えでいればそのような感覚が抑えられるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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あなた自身がどう在りたいか?何が本当の満足なのか?
ご相談拝読しました。
小学生の頃の体験から、「気づくほうが傷つく」という思いに至り、そしてその反対、つまり「気づかないと傷つかない」=「ずるい」という考えにたどり着いたのですね。そしてその考えは子供じみているので拭いたいと考えていらっしゃっるとのこと。
その感覚は大変大事なものであると私は思います。
さて、「人間知らない方が幸せなこともある」といったような言葉がありますが、それは果たして本当の幸せでしょうか。
確かに時に厳しい真実を突きつけられるよりも知らないままでいた方が「楽」ということはあるでしょう。でもその「楽」ということと「本当の幸せ」は同義なのでしょうか?
私はそうとは思いません。
あなた自身は本当に自分の非の可能性を感じずにただ相手への怒りを見せられる人間になりたいでしょうか?そこに本当の幸せ、本当の満足はあるでしょうか?
そしてもう一つ。
そのお相手は果たして本当に何も気づいていないのでしょうか?もしかしたら、あなたが望むタイミングで望むような形では気づいていないけれども、あなたの知らないとことろで自己の姿に気がつかされるということを経験しているかもしれません。
でも、それはわかりませんよね。
だからやはり大事なのは
あなた自身がどう在りたいか?何が本当の満足なのか?
ということです。
たとえ厳しく辛く傷つくことであったとしても、本当のことを知るところに本当の満足があると私は思います。
もちろん「こんな思いをするならば本当のことなど知りたくなかった」と嘆いてしまう様なご縁もきっとあることと思います。でもそのご縁をその時の一瞬のみで切り取らないで、その人の一生で考えるならば、やはり本当の事実に向き合うことがその人の人生に本当の満足をもたらすのではないでしょうか?
楽は楽だけどむなしい
本当の幸せは厳しいけど満たされる
そのように思います。
本当のことを知らないままの人の姿を本当のことを知っている人が見たらあわれだと感じます。知らないが故の幸せは本物ではないと感じるからです。
質問者からのお礼
わかりづらい文章を深く理解していただき…ありがとうございます。
確かに。相手が本当はどう感じていたのかは、外側からは押し計れません。
その時の受け答えのみを感情的に判断した結果で、浅はかでした。
大事なのは自分がどう生きたいかですね。