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考え方

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

私は 苦手な人 忘れられない事や失敗 後悔など
自分では、どうにもならない事に執着して
いつまでも 堂々巡りを繰り返し 苦しみます

よく人は変えられないとか言うけど
なら、考え方を自分が変えた方楽なんだとか言いますが それって 簡単な事でしょうか?
悩みがそれで変わるなら 私は どうしたら
いいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

念の起こるところを見よう

考えってはじめっからやってるわけじゃないのです。
鐘の音だって鳴らさなきゃ鳴らない。
思いや考えの鐘、ベル、鈴、たーりんさんのたー鈴(リン)はいつなるんでしょうかね。
鳴り始めがある。
鳴らし始めがある。
そうなのです。なっていない時だってあるのです。
よって「あの鐘を鳴らすのはあなた」なのです。(アキ子かい)
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修行道場では鐘などの鳴らしものを鳴らす仕事を最初に覚えます。
鐘司といいます。
鐘はむやみに鳴らすものじゃありません。
現代人は鳴らさんでいい時にまでむやみに鳴らすんじゃないでしょうか。
どんなに余韻が残る鐘の響きだってその響き自体が諸行無常です。
諸行無常の響きありとは、そういうこと。
思いの鐘自体も無常。もうさっきまで思っていたことなんて鳴りやんでいる。
「え、でもまたなり始めている」「どうしても鳴ってしまう」というのは「今」鳴らしたのです。自分を良く見つめてみましょう。
その思いの鐘が鳴り始める瞬間をまず知ること。
そしてその思いには鳴りやんでいる時がある。
もう先程の響きではなくなっている。
いつ鳴らしているのかを知る。
過去のことでも必ず、今新たにやっているのです。
いつ鳴らすのですか?今でsy…(林先生か)
そのツッコミが起こるのも必ず今新たに起こるのです。
お笑いだってボケもツッコミも大事なのです。
あなたが今思い起こしたことは、一種のボケだと思いましょう。
問題なのはその思いのボケが生じたときに、どんなツッコミを入れているか。
そのツッコミやリアクションによって自分が暗くなる方へ進めているのです。
その鳴っていることを問題にしている私が問題なだけだと知るべきです。
人は出来事直後、反応直後にすぐに何かを思い始めます。
そこを知りましょう。
反応やツッコミが自分を損ねてしまっているだけなのです。
考えてはいけないのではないのです。
考え直後に何を思っているかなのです。
自分がどういうボケとツッコミをしているかをよく見てみることです。
そして、それを今までとは違う方向へ引っ張って行ってあげることです。
だから「あの鐘を鳴らすのはあなた」なのです。(アキ子か)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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