hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

怒った時のひどい態度をやめる方法

回答数回答 2
有り難し有り難し 43

イライラしたり怒った時にひどいことを言ったりやったりすることをやめたいです。
特に自分の大切な人にやってしまった時に凄く後悔するのですが怒りを感じると同じことになってしまいます。

怒りに任せて行動するのをコントローラする方法はありませんか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【ラベリング】からの【サティ】(気づき)

「あ、(自分は今)イライラしている。」
と、怒りそうになった時のご自身の状態に、名前をつけて心の中で呼んでみてください。案外、こんな事で止められるものですよ。

ひとつのトレーニングとして、とにかく日頃からありとあらゆるご自身の「状態」に名前をつけて呼んでみてください。スマホをいじっている時は、スマホをいじりながら「スマホをいじっている」と名付けてください。お茶を飲んでいる瞬間に「お茶を飲んでいる」と名付けてお茶を飲んでください。運転中は「運転中」と名付けてください。仕事に集中できない時は「集中できていない」と名付けてください。
自分のすべてにラベリングして、ひたすら自分の状態を実況する感じ。ラジオでやっている野球や競馬の実況中継のように、克明かつスリリングに実況して楽しんでみてください。ありとあらゆるものに【ラベリング】(名前を付けて)して、【サティ】(気づき)、片っ端から手放していってください。

いささか乱暴な説明になりましたが、これは【ヴィパッサナー】といい、古くから仏教に伝承されてきた瞑想法のひとつです。

どうぞ、お試しあれ。

<追記>
「また怒っちゃった。後悔。」
とラベリングして、ぽいと手放しましょう(笑)

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談してください。 でも、悪い事とやりたくないことはやりません。 https://www.facebook.com/rental.monk rental_monk hasunoha.tenrakuin@gmail.com
平日は夜間のみ対応可能。

この体をディスプレイとしてみてください

怒ること、(# ゚Д゚)怒り、キレること、不満の爆発、許せないこと…
怒りというのは私的なことと公憤とがありますが、怒りの原因となっているのはあなたの脳内激おこプンプンスイッチの設定がONになっているのです。
条件設定を外すことで怒りは半減以下になります。
それは
「期待ON」
「理想ON」
「マイルールON」
「自分の押しつけON」
このスイッチを心の中で感じ取って今日中にOFF設定にしてください。
人は相手に無意識の内に期待していたり、自分の思い通りになってほしいと思ってしまっているものです。
この体をディスプレイとするというのは、出来事に罪はないという事です。
この体は、たまたまその出来事を映し出しただけ。
その出来事や状況には罪はないのです。
そこに主観・私見が入って自分の都合上にものをみるから腹が立つのです。
これを「自分を立てる」といいます。我の起こりです。
人間には元々この身にはエヴァンゲリオンのように私という乗組員がいません。
ワタシという乗組員がこの身心に起動することで自分流の好き嫌いや都合が生まれるのです。
坐禅をしてわたくし意識の静まりを体験してみましょう。
「ああ、本当だ。この自身の上に「オレ・わたし・自分」っていう感覚が無い時は怒りたくても怒らないのか!」という発見がありましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
ラベリングですか、そんな方法があるんですね。
この質問を書いた後回答を読む前にまたやってしまいました。
次使ってみます。

欲があるから思いどおりにならない時にイライラする。欲はあれこれ考えるから生まれるということですか。
座禅をしたことはないんですが座って何も考えずにカラッポになればいいですか?
ありがとうございました

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ