罪を犯しました。
罪を犯してしまいました。それも、私がこれから志すつもりであった道に関する罪です。
法の遵守を訴えてきた法学生が法を犯すような、医者は人道的であれと主張する研修医が人を殴ったような、そんな罪です。
遅ればせながら罪に気づき、謝罪すると、被害者の1人は「謝らなくてもいい」と言ってくれます。しかしそれは気を遣っているのでしょう。彼女がその時抱いた恐怖は、消える事はありません。私が罪を犯したという事実も、一生残ります。私が今の学問の道を続けるなら、尚の事、何かにつけて思い出すでしょう。
加害したことがここまで苦しいと思いませんでした。自分が加害者だと認める事がこんなに怖く、苦しく、恥ずかしい事であるとは。しかし、罪を犯し人を苦しめたことは(それも致し方のない罪ではないのです。すべて私が悪いのです。悪意すらなく、人の領域を自分の欲の為に踏みにじったのです。)何をしても償えません。私が罪を忘れず苦しむ事が、まっとうな罰だと分かっています。それなのに、救われたいと思ってしまうのです。一生この罪を背負うと思うと怖くてたまらない。彼女に許しの言葉をかけられたいとすら願ってしまいます。私の学ぶ道すら汚してしまったことも、私を苦しめます。これから実績を積み、表に立つほどに、私は過去の罪に怯え、人に罪を隠し、綺麗事を吐いて生きるのでしょうか?そんな不誠実、耐えられません。しかしそれがいやだからといって、罪を告白して生きる事も怖いです。親友や家族にさえ言えません。どれだけ失望されるだろう。言い訳や弁護の余地がないほど、私が全て悪いのです。日頃から学び、やってはいけないと知っていたはずの罪を犯した私を、軽蔑しない者がいるでしょうか。恐ろしくて震えます。
彼女に負わせた傷をさしおいて、こうして自分の身ばかり考え、自分の苦しみばかり訴え、救われたいなどと思っている自分の愚かさに一層深い苦しみに囚われます。救われるべきではないのに、罪と向き合い背負うべきなのに、怖くて苦しく救いを求めてしまう私を、叱咤してください。そして、今の学問を続け生きていく上で、大切な人々に罪を告白し、加害当事者として批判を受けながら進むべきか、隠して1人後悔と罪悪感を抱えるべきか、どちらが正しいのかお教えください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人は完璧じゃありませんよ!
過去の質問も含めて読ませていただきました。
相田さんは、自分の人生や進む道に誠実に生きていきたいと思っていらっしゃるのですね。
しかし、人は完璧じゃありません。成長していく上で嘘もつきます。理由はどうあれ、生き物(虫や植物なども)をたくさん殺します。他にも知らず知らずのうちにたくさんの業を積み重ねていくのです。
じゃあ、生まれたての赤ちゃんは何も悪いことしてないので、真っ白で完璧な存在かといいますと、そうではありません。
命というのは今の世の中だけの存在ではなく、過去の命があり、過去の世界で行ってきたことが原因で今の命を受けるのです。つまり、過去の世界で行った善いことや悪いことが全て積み重なり、それが原因で人間という命を今受けているに過ぎません。
つまり、人間として誕生した時点で、過去の罪を背負っているのです。
では、人間というのは罪にまみれたどうしようもない存在なのか?
そうではありません。人は頭で考え、悪いと思ったなら反省することが出来ます。
仏教的に言うなら、人はその身を使って仏様にお仕えするする事が出来ます。そして口を使ってお経やお題目を唱えることが出来ます。そうやって自分の犯してきた罪をあがない、成仏へと導いていただくのです。
つまり、人は反省できるのです!
仏教を説かれたお釈迦様ですら、元を正すと完璧ではありません。過去の命では、我々と同じように色んな煩悩にまみれ、悪いことをしたこともあるのです。しかし、それを悔い、反省し、その結果としてたくさんの人々を救うために気の遠くなるような長い年月の間修行をされ、そしてついに悟りを開かれたのです。
つまり、自分が罪を犯したからこそその辛さが分かるし、そうやって苦しんでいる人々を救おうと思われたのです。そう考えると、反省するということは素晴らしいし、その姿は美しくすら見えます。
相田さんは、罪を犯したことをとても後悔されておられます。
しかし、その事実を受けて、これからどうするか。後悔したまま後ろ向きに過ごすのか、それとも反省して活かしながら前向きに進むのか。
人は誰しも完璧じゃありませんが、生き方は自由に決められます。
相田さんは、自分の罪を素直に認められる素晴らしい心の持ち主です。それを活かし、これから納得のいく人生を送られることを、心よりお祈りいたします。