たのしく生きたいだけ。
どんなに規則や法律などを作って、正しさを成り立たせようとしても、すべての者にとって、生まれてから死ぬまでなにもかも平等であれるようにすることが不可能なら、中途半端に法律や規則やルールなど作らないで欲しいです。どうせ不可能であるなら、自由に生きさせて欲しいです。
なにをしても良し悪し言われる。
めんどくさいです。
お坊さんからのご意見を頂きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【観自在】自在にものごとを観る
私の知るかぎり、お経には「自由」という言葉は出てこないようです。
そのかわり【自在】という言葉はわりとよく出てくるようです。
ちなみに、日本でもっともポピュラーな『般若心経』の主人公は観自在菩薩さんです。
優れた関取は、あの限られた土俵の中で狭さを感じないという。
おそらく、スポーツだけでなくどんな分野においても、ものの見方や発想、行動等々が自在な人は同じなんだと思います。逆に、自由にしている人のほうが不自由を感じる事態に遭遇しているというのもよくある話で。
ルールはたしかに私達を縛り付けるじつに窮屈なものではありますが、同時に、私達を護ってくれる有り難いものでもあり、秩序を保つために必要なものでもあります。法律の抜け目を探すとか裏をかくとかいう意味ではなくて、この法律、規則、掟、しがらみ・・・良くも悪くもルールのある世の中を楽しく【自在】に生きていくノウハウを仏教から学んでみませんか?
法律以前の仏法
僧侶の世界では、法律以前の、仏法に生きることを大切にします。
「法」とは水が川上から川下へ流れ去る様子そのもの。
これに良し悪しもありません。つまり、あなたの目は物を見る時👀善悪、好き嫌いを言わないのです。つまりは平等とも言える。差別もしません。
そうした目や耳、鼻、舌、そして体の働きに学ぶことで、法律以前に生まれながらに自由に生きることができるのです。
信号も守れる。苦にならない。柔軟な人になれる。
法律は集団社会の中で秩序を守るためには最低限必要なものなのでしょう。
現実問題として、見直す必要のある法律もあるでしょうが、われわれは、そこではなく、仏法に目を向けて生きているのです。
規則や法律は、あなたやあなたの周りの人たちをを守るものであり、縛るものではありません。いわばあなたが自由に生きて行けるように決められたものと認識すると良いと思います。
例えばここhasunohaは、匿名で質問ができます。匿名で質問し、個人を特定しない「規則」になっています。これはあなたを縛り自由を奪うものでしょうか?面倒くさいものでしょうか?