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疑心暗鬼になってしまう

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いつもお世話になっております。今回もまた相談をさせてください。

なんでもかんでも疑心暗鬼になってしまって生きづらいです。

例えば、ホームで電車を待っている時に後ろに人が並んだだけでも「私がナメられやすい雰囲気してるから、この人は私を抜かそうとするかもしれない」だとか、そんな事言われた訳でもないのに考えてしまいます。

人と話す時も、相手の些細な表情の動きや態度を見て、「私のことウザイんじゃないか」って考えてしまいます。

頭ではそんな考え方しちゃいけない、そんな訳ない!と分かっているのに、考えてしまいます。
一日中考えすぎて、人にも気を遣いすぎて、もうヘトヘトで生きづらいです。

気を遣いすぎて、かえって人にもイライラされやすい気もします。本当に疲れてしまいました。

どうすれば疑心暗鬼な考え方をやめられるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ものに意味を添えている「わたし」に気づく

仏教では顛倒夢想といいます。
本当はそんなことはないのに、自分流に勝手な意味を突けてしまう事。
これって小さいころからやっているのです。
私も子供のころ不二家のミルキーの飴の中でたまに入っているオレンジ色の包みの飴や、キャラメルコーンの中にちょっと入っていたピーナッツが出たときは自分の中で「当たり・いいことがある」という意味を勝手につけていました。いいことありませんでしたがね。
ですが、そう思うと思うことで幸せになれたりします。
反対に、悪い意味をつけてしまうというようなことがあります。
実際は悪いことは起きなかったと思います。
たまたま悪いことになったとしても、それは偶然が重なってしまっただけでしょう。
毎回毎回、何でもないことにであっているのに、悪いことが怒りもしない内から悪い意味を添えて過ごすという事は、心をいたずらに疲れさせます。
出会っている事実というのはまっさらで何もないまっさらな出来事です。
嫌なことが怒るかもしれないと思う度に次の真言をお唱えしましょう。
「産地直送とれたて新鮮出来立てホヤホヤ」
私たちが出逢っている事実はいつでも人生の初めての出会いです。
そこに勝手な意味を添えたり、悪く考えてしまうのは人間誰もが持つ妄想の作用。それが転倒夢想なのです。ものごとをひっくり返しにみる妄想。
これは過去に出会った嫌な体験から来る防衛反応の一種だと思いましょう。
坐禅は思考や妄想以前の世界に目覚めます。
鳴らない鐘は鳴っていないように人間も思いの鐘が鳴り始める以前があるのです。
人が坐禅をする理由の一つは、妄想や思考に染まる前の自分に出会って、自分の思いに振り回されない生き方を見出す為でもあります。
近くのお寺で坐禅会が開かれていたら参加してみてください。
自分の中で沸いてくる思いと距離感を置いて自分に関わらせないようにできるものです。
自分の思いに惑わなくなればそれはそれで自身の負の思いに打ち克ったことになりましょう。
本当の坐禅というものは、仏法に目覚めて何不自由ない自由で安楽な心に目覚めるものですが、坐禅の功徳の側面の一つとして、自分の思いに動じなくなるという事があります。人生は長いです。心とのお付き合いは一生だからこそ、心をおさめるべく自分に向き合う時間を持ってみて下さい。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
また悪い事を考えそうになったら唱えてみます。
いつか、自分の惑う心に動じなくなりたいです。

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