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カタツムリと私の外見

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有り難し有り難し 24

私は昔からカタツムリの外見がメチャクチャ嫌いで凄く悩んでいます。でも理由が思い付かないのです。
友人からは、「あぁ、あの触覚とかヌメヌメは確かに嫌いになって仕方ない」ということで一応の納得はしてもらってるのですが、実は私はナメクジは何故か平気で、しかも手袋の上から捕まえて「わぁかわいい」なんてこっそり思ったこともあります。なのにカタツムリは何故か嫌いです。何度も頑張ってお近づきになろうとしましたが、殻が見えた瞬間にいつも挫折してしまいます。
では、なんでカタツムリの外見ごときで悩みまくってるのかというと、私がカタツムリとの関係を通じて外見だけで物を判断しているのではないかという嫌悪感に陥っているからです。
実のところ、私も外見が酷いと言われたほうで、学校なんかで知らない人から目を背けられることが多々あります。私と目があった瞬間に人の笑顔が消えるのも何度も見ました。服装や髪型に気をつかってもそれは変わりないです。
私や、カタツムリはただそこにいただけです。何も悪いことをした覚えはありません。これから悪いことをするつもりもないです。でも嫌われます。それは、外見が悪いからだなぁと思います。でも、私はそれだけでヒトやモノを嫌いたくないです。何故ならいたずらに拒絶される辛さを身をもって知っているからです。
でもどうしてもカタツムリが嫌いです。何もしていないのに…
つらいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

超高速直感的キモさは人によって異なる

私はかたつむりは平気なのですがブリトニー※とハンドレッドレッグス※とスズメバチはキモモですね。
※ご想像にお任せします。
あのテラテラ感がストレートにKIMOいです。「キモいいね!」クリック。
Gブリは結構、我が家には出てくるので、坐禅によって克服できないものかと思って実験してみたことがあります。ウチのオトンは私が苦手な便所コオロギと話せます。酢を指につけて交信していました。キモいですね。私は子供のころ、テラのボロ家のふろ場で便所コオロギを生足ダブルでふんずけた時から便コロトラウマです。埼玉用語でカマドウマとかイドギッツとか呼んでます。最近見なくなりました。
寺に防空壕がありましてね。そこに知らずに入ったら天井からドバドバ落ちてきましてね。キモいでしょう。けっけけけ。(°▽°ⅲ)
Gブリは心を鎮めてエビだエビだエビだと念ずることで捕まえることができるようになりました。勿論キモいです。キモいですがキモいという思いが沸く以前の心をアドレスとしていると、手の中でわさわさ動くだけの虫という認識でしかありません。スズメバチとかムカデは刺すのでやりません。
一度や二度できたぐらいではまだまだ青いと思いさらに修行を積みました。瞬時に禅定マインド(坐禅状態)にするコツを得ましてゴキが出たときは素手ゴキをするという負荷を自分に与えました。するとだんだん平気になってくるではありませんか。父に近づいたと感じました。近づきたくないですが。ホントに極めただろうか。やってみよう~trytry。丁度、子供が「ゴキだ!ゴキだ!」と騒いでいたので私のフォースを活用する機会に恵まれました。
心を空じて、思考を動かさない状態になり、素早く動く黒いモノを知覚だけを頼りに捕まえ、ビニール袋に入れました。「お父ちゃん、スゴ。」子供たちの前でも得意げです。
結構マジックポイントを消費しますが、ついに素手ゴキを極めたのです。
ところが困ったことが起こりました。
「おとうちゃん、ゴキがでた!ゴキが出た!」
出てくるたびに呼びつけられるのです。毎回触りたいわけじゃないわい。

さて、お分かりいただけましたでしょうか。分からない方がイイですが、キモいものはある程度克服ができるのです。そのものを観た直後、起こる自分の負の思いを相手にしないことです。でも、キモいものはキモいで悪いことではありませんのでキモくてOKかと。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

好きな人もいることに、目を向けてみましょう。

こんにちは。亀山純史と申します。

人の好き嫌いは感覚的なものであって、決して論理的なものではないでしょう。食べ物の好き嫌いがそのいい例です。ある人にとっては、「あの食材の苦みが嫌だ。」と言い、またある人にとっては、「何言っているんだ。あの苦みがいいんじゃないか。」っていう具合に。生き物に対してもそうです。爬虫類が大好きな人もいれば、嫌いな人もいます。人の好みは、言葉(論理)でもって説明し尽せるものではないでしょう。ですから、そのような感覚的なものを直そうとすることは、なかなか難しいことだと思います。
では、どうすればよいか。ここで大切なことは、「自分は嫌いでも、そうでない人もいる。」ということに目を向けることです。仮にあなたがカタツムリ嫌いを克服したとしても、あなたが感じる、周りの人のあなたに対する視線に変化が起こることはないのです。しかし、私は克服できなくても、なんとも思わない人もいる、ということに目を向けるならば、きっと、あなたに微笑んでくれている人がいることに、気づくのではないでしょうか。
ネガティブな思考は、ネガティブな結果しか生みません。目の前にある物事、出来事は、誰にとっても平等にあるのです。カタツムリもそういった目の前にあるものの一つです。そのカタツムリに、「ごめんね。私はお前のことが苦手だけれども、お前のことを好きな人もいるんだよ。」と、少しでもポジティブな見方をしてあげてほしいと思います。

以上が私からの回答です。ちなみに私は蛇が苦手ですね。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

皆様の暖かいお言葉に大変感謝しております。長らくお礼を送ることが出来ず申し訳ありません。
というのも、実は、あれからカタツムリと向き合っているうちに、「あれ、小さいカタツムリは平気だぞ?」と思って、今年のお盆に祖父にカタツムリの子供を捕まえてもらって育ててみたところ、なんと克服してしまいました‥
一年前まで蛇蝎の如く嫌っていた存在に今ではご近所さんみたいなフランクな気持ちで接することが出来るようになり、当初は嬉しいような申し訳ないような複雑な気分でしたが、往年の悩みがなくなって非常にすっきりしています。
思えば大胆な方法で克服しましたが、これもお坊さんの皆様のアドバイスが背中を押してくれたところが大変大きかったと思っています。稚拙ではありますが、改めて感謝の言葉を述べさせていただきます。

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