お任せ
私の知っている仏法の極意に全てを仏にお任せする、と言うものがあります。明日どうなるんだろうとか、自分の力が足りるだろうかとか、あの人に攻撃されたらどうしようとか色々不安はあります。
しかしあれこれ考えても物事はなるようにしかなりません。それも自分の努力の結果と言うより自然界に働く自然の力のようなもので決まります。これを仏教では他力と言うんでしょうね。
何の不安もなくお任せの境地になれたらそれは安心でしょうが中々そうはいきません。ああしたらとかこうしたらとか怖れにさいなまれるのが凡夫です。
さてそういう凡夫の私でも一日を送るうえで午前中はあれこれ心配でも午後、夕方、夜になるにつれ諦めの境地になりまあ明日も何とかなるだろうと無理やりお任せになります。
実際私のできることは小さくて大きな自然の流れに流されて生きているからお任せと言うより諦めに近い境地で生きています。お任せの境地になるにはどう修行したらよいでしょう。
今のところ座禅が趣味ですが以前伺ったところでは仏教ではいろんな修行法があって私にあったものがあるようなことを聞きました。座禅は一生続けるつもりですが座禅以外でも御教授下さればうれしいです。
被害妄想がひどくて道を歩いていて自転車に追い抜かれるだけでかっとします。後座禅していても妄想はなかなかとれません。因みに女性とお付き合いしたこともありません。以上です
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「他力」とは「如来の本願力」
ご相談拝読しました。
「お任せ」や「他力」というのは浄土真宗でよく用いる表現かなと思います。ただし浄土真宗で言う「他力」とは本来は「(阿弥陀)如来の本願力」であり、それは「浄土に往生するのは他力(阿弥陀仏の本願力)によるので自力は無効であり、お任せするほかない」という様な意味です。
もちろん、今生きている事や全ての現象が成立するのも私の力ではなく様々な縁(条件)によるのですからそうしたことも広義の意味で「他力」と表現することもありますけどね。
そして「諦める」というのは仏教では「諦」とは真理のことですから、けして「投げやりになる」とか「放置する」という意味合いではなく、「事実を事実として明らかにみる」ということです。
物事の因果関係を道理に照らして明らかに見極め、「お任せ」してどうにかなるものとならないものはきちんと分けて考えなければ社会生活は成り立ちません。
>何の不安もなくお任せの境地になれたらそれは安心でしょう
ということですが、そうはなれずどこまでも我を張ってああしたい、こうしたいと執着してしまうことを見抜かれたのが仏の智慧です。ですから不安になることもお見通しなのですよ。
むしろその不安が私たちが仏の智慧と出会う唯一と言ってもいい接点です。不安・悲しみ・怒り・苦しみ…そうした形をとって真理は私たちにはたらきかけます。なぜならば私たちは道理(自然の流れ)に反している時にそうした思いが生じるからです。
思い通りにならないことを思い通りにしたいのが私たちです。その私の姿に気づきなさいとの呼びかけ・はたらきが他力(仏の智慧)です。
道理に反する我が身の姿が明らかになるという形で、道理を知らせる真理としての仏の智慧に出会うのです。
自分が迷わなくなるのでなく、迷っていることを明らかに知るのですね。
もちろん仏道は八万四千の法門と呼ばれその教えは広大ですから、我が身が迷わなくなるということを教える道もあることでしょう。坐禅もそうなのかもしれません。
私は浄土真宗ですから、聞法・称名念仏が大事な実践です。
様々な教えからその内容の優劣を探るのでなく、自分の身に本当に相応する道を求めてみてください。どんなに素晴らしいと思える教えでも我が身に実現しないのであれば現実の苦に対して間に合わないのですからね。
質問者からのお礼
お答え有難うございました。自然の流れに逆らうときあれ?おかしい。間違っているよ。と言う声が不安、悲しみ、怒り、苦しみであることが解りました。そのシグナルを読み取って自分を知ることが仏の知恵なのですね。私の不安も仏の知恵に出会う接点なのかもしれません。私が気づいたことは失敗や間違いのない人生はないという事です。不安に思う裏側には絶対失敗しない人生を期待している自分がいるという事です。こけてなんぼが人生です。明日失敗しても人生の肥やしとして成長したいです。