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隠者、厭世者、世捨て人、ニートの違いはなんでしょうか

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お坊さん

隠者、厭世者、世捨て人、ニートの違いはなんでしょうか。
単純な興味本位の質問で恐縮です。

最初の2つは仏教やキリスト教など、なんらかの宗教を信じて、修行を実践している人のようなイメージがあるのですが、現代でもいらっしゃるのでしょうか。何を目的に、どんなことをして日々を過ごしたら、上記の人々のようになるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ニートも、厭世者も、みな花を開く前のつぼみです。

後輩さんで、昼間仕事をせずに、立派に生きておられる方がいます。
彼とはガソリンスタンドで出会ったのですが、地域の防犯活動に一生懸命で、歩いてあちこちを見回っています。
髪は茶髪。イカつい風体。防犯活動のバッジを持っていないとその筋の人かと思われかねません。私がお寺でバイクが動かなくなっていた時に、自転車で彼がやってきて「こっちに変な男が来ませんでしたか?あれアンタ、この前ガソスタで。坊さんだったの?」
私が世捨て隠遁坊主だということがバレてしまいました。
私がバイクが壊れたと知るや否や、わざわざ自転車で家まで工具をとりに帰って直してくれました。
話を聴くと、結婚を控えていた婚約者が東日本大震災で亡くなられてしまったそうです。
おそらく仕事を休まれ地域活動などをされ何か答えを探し求めておられるような印象を受けました。
かけて差し上げる言葉もありませんでしたが、彼は必至で心を立て直そうとされていました。
通常、そんな痛ましいことがあれば、何もする気力もなくなってしまう方がほとんどではないでしょうか。
誰の前からも姿をくらませば隠者、隠遁者。
世を厭い嫌えば、厭世者。
世を捨てれば、世捨て人。
こもりっきりで、ゲーム三昧、ネット三昧で仕事もしなければニート。
ただし、ニートでも隠者、厭世者、世捨て人でも、
肩書きはどうであれ「心が傷つくようなことがあった」ことは皆同じです。
お釈迦様が尊いのは、山籠もりをされたのちに悟りの花を開かれて山からお出になられ、世の中に悟りの花の香りを広められたことです。
ニート、引きこもり、何と言われようが、そういう生活の中で心の傷を埋めつつ、世の中のために何らかの活動や情報発信をされれば何らかの香りを広める立派な活動家です。
時々私も、このhasunohaでの情報発信に質問者への力及ばず心が折れてしまうこともあります。だからといって何もしなくなれば厭世者。
それでも、誰かのお役に立てる回答ができたとすれば、私自身が非常にありがたいことです。
人は、立場や肩書によってではなく、行いによって、厭世者にも、ニートにも、彼のようないずれ花を開かれるであろう活動家のつぼみにもなれるのです。
これをご覧になられる方々とともに、自分もつぼみである事を自覚し少しずつ開いて花を咲かせて、共々に誰かによき香りをお届けしたいものです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

出家者とニートの違い

「隠者、遁世者、世捨て人」の定義が曖昧なので、仮に「出家者」と「ニート」の違いで説明させてください。

仏教が生まれる以前から、インドでは「出家」はポピュラーなことでした。
出家pabbajjāの原語はpavajati 歩き回る、巡遊するという意味です。家を出て山林などへ向かい、真理を求めて修行する人々です。なんらかの宗教や師を信じて出家する人もいれば、世の空しさを厭い出家する人もいました。
それに対し、在家gahaṭṭhaとは文字通り「家ある者、家に住む者」。世俗の仕事を行い、家庭生活を営む人を指します。

仏教の出家者=比丘(びく)bhikkhuとは、「食を乞う者」という意味です。自ら経済活動をせずに、信者から托鉢を受けて生活します。
仕事をしないという点で、ニートに似ていると思われるかもしれません。しかし比丘は仏教の戒律を守り、悟りを求めて修行し、教えを在家者に説くという「出世間の」仕事をしています。
托鉢も、単に食べ物をもらっているのではなく、逆に在家者に「食事を布施する」という功徳を積む機会を与えていると考えます。

ニートは家庭という完全な世俗にある点が、出家者とは全く異なるのではないでしょうか。

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