hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

おみくじの内容について

回答数回答 3
有り難し有り難し 59

今年のおみくじは久しぶりに大吉でした。
「(前略)よき人の引立てにあずかります。」とありまして、そのあとに「けれど心正しくないと災いがあります」と続きました。
この最後の文について伺いたいのですが、「心正しく」とは具体的にどういうことでしょうか。

父は「世間一般的に正しいと言われることをしろ」と言いました。私は、一般論が必ずしも正しいとは思っておらず、こんな話をされるときは非常にもやもやします。
正しいこと、悪いこと、の解釈は人それぞれなのではないかと思います。つまり心正しく、とは、自分の良心が正しいと示す選択をしなさい、ということなのではないでしょうか。
それとも何か根本的に考え方が間違っていれば教えていただきたく。

回答次第で親と喧嘩しようというわけでは有りません、私自身の中で留めます。。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自信を持って前を向けることではないでしょうか!

質問読ませていただきました。

elieさんのおっしゃるように、善い悪いとは人に依って異なります。
世間一般で言われている「善いこと」は、多数の人が「善いこと」と思っていることであり、少数の人にとっては「悪いこと」かもしれません。

また仏教で言いますと、仏教の最終目標は苦しみの世界から抜け出すことです。
しかし、「自分は地獄に堕ちて、永遠とも言える永い間、想像を絶するような苦しみを受け続けたいんだ」と望む珍しい方がいらっしゃるのであれば、その方にとっては地獄に行くことが「善いこと」なのです。

では、「心正しく生きる」とはどういうことか。それは自分の心と向かい合い、「心に正直に生きる」ということです。自分に自信を持ち何ら恥じることなく、前を向いて生きるということです。
たとえば、何かものを盗んでしまったとしましょう。それがどんな小さなものであれ、「盗んだ」という気持ちは自分のどこかに引っかかりませんか?その気持ちのせいで、どこか後ろめたい気持ちが芽生えませんか?もしくは、後悔の気持ちが芽生えませんか?

ですので、「心正しく」というのは、elieさんのおっしゃるように「自分の良心が正しいと示す選択をしなさい」ということでよろしいのではないでしょうか。

今年一年、elieさんが自分の良心にもとづいて、誰にも恥じることなくしっかり前を向いて歩かれることを、心よりお祈りしております。

{{count}}
有り難し
おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
このお坊さんを応援する

気持ちの持ちよう。解釈も 納得も、その人次第ですよ。

おみくじは、運だめしのようなものだし、業者が印刷したものだから、書いてある文句も、よく分からんのもありますし。当たるような〜当たらないような〜 解釈も 納得も、その人次第ですよ。

どういう意味でしょうね〜。
良いご縁もあれば、災いも、、、
どっちとも取れるように、なってあるわけです。
正しい、良い、行いばかりをし続けることは、なかなか難しいですし、それも人間の価値観によるものですから、なんて曖昧な、と思ったりもします。
仏教は、私の煩悩に振り回され、思い通りにいかないのがこの世だと説いていますし、おみくじを引いちゃうと、今度は内容を気にして振り回され 悩む種が出来る。今のあなたのようにね。

おみくじは否定しませんし、恒例の行いなのでしょうが。意味も、お坊さん 一人一人 捉え方も違うと思いますよ。

あなたが、きっとこういう意味なのだろうと納得していくのが一番良い 見方です◎

頭の隅に、気にかけておく程度で。
気持ちの持ちようですから。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
このお坊さんを応援する

悩み苦しみの原因を増やさないよう気をつけること

仏教は、悩み苦しみの原因(つまり煩悩)を減らしたりコントロールする教えです。
「正しい」とは、煩悩を減らしたりコントロールするのに役立つ方向性です。
たとえば、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を減らしたりコントロールすること。
そして、慈・悲・喜・捨という4つの心(四無量心)を増やすこと。
慈は、怒らないで他者の幸せを願う気持ち。
悲は、他者の悩み苦しみをなくしてあげたいと願う気持ち。
喜は、他者の成功や幸せを喜ぶ気持ち。
捨は、執着心を捨てた落ち着いた悟りの心。
私もあなたに偉そうには言えませんが、人は、欲・怒り・怠け・プライドに酔ってしまって、やってはいけないことをやったり、言ってはいけないことを言ってしまい、失敗することがあります。
正しさとは、煩悩で失敗しないよう精進することかもしれません。
私は、お店のレジで小銭を受けとるときに手からこぼしてしまうことがあります。
こんな小さな失敗も、「怠けの煩悩」で手先への集中力を途切れさせていたからなのです。
まったく人というのは、煩悩だらけで失敗だらけ。
だから、よく気をつけましょう、ということではないでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

まったくそうですね、有難うございます(^^;)
おみくじは毎年の恒例ですが、まさに煩悩のかたまりですね。
好きなのでつい引いてしまいますが、振り回されず、心静かに過ごすようにします。

藤川様も有難うございます。
そもそもおみくじのようなもので(私の気持ちだけであっても)父と諍うようなことは自分にとって善いことでは無いということに気づきました。
新年早々丁寧なご返信を有り難く拝読いたしました。

「お守り・お札・護符」問答一覧

お寺の御札/お守り等の授与物について

私は千葉県の在住です。成人です。 観音様への関心が強まりまして、 毎月・朔日/月初にお参りに通うなら在住市内に在るお寺の方が良いかなとも考え、検索して近所に見つけましたが、お寺って、中規模以上くらいにならないと、御札等がある程度の種類の取り扱いが無いところが多いな…と思いまして。 自宅の神棚にお祀りして毎朝お祈り/祈願したいのです。 それで、例えば、東京浅草の浅草寺は生まれてから2~3度お邪魔した事はあるのですが、 遠くはないが、行きたい時に難無く赴けるほど近くはない距離感で、郵送での購入を検討していますが、 「Q:普段から正月のお参りやある程度定期的にお詣りして馴染みがある訳でもないのに、御札やお守りだけを頂く事でも本尊様方のご利益に与れるものだろうか?と思いました。」 そこまで考えるのは少し考え過ぎかどうか…。 自宅近所に見つけた車で5分程度の同じ市内のお寺も聖観世音菩薩を御本尊として、他にも不動明王様もいるお寺で行き付けにしているのですが、浅草寺様と同じ観音様だから関連している…と考えて良いものか、と。 普段現地に顔を見せないのに御札だけねだられても…とは浅草寺の観音様も思わないんでしょうけど…。 或いは、その発見した近所のお寺にお参り時に、同等の金額を浄財としてお布施すれば意義的には同じなのかな…とも一縷考えましたが。 ※勿論、一番良いのは直接その場で授与していただける事、何か御祈願したい時にいつでもお参りできる事だとは承知はしているのですが…。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

聖天様のお守りと参拝について

夫婦関係に悩み、初めてのお寺に観音様の参拝に伺いました。事前にHPを拝見し、聖天様と浴油祈祷の記載もありましたが、何のことか私には理解できない事だと思い、観音様の参拝にと伺いました。 参拝後、本堂横の授与所で、あるお守りに惹かれましたが、お寺の方に"観音様ではなく聖天様ですが宜しいですか?"と2度念をおされ、意味はわからないまま"一旦考えさせて下さい"とその場を離れました。 そして聖天様について携帯で調べると、安易に拝むべきでない、信仰するなら一生、辞めると怖い等の情報を目にしました。 その後別の授与所で、お寺の方に"本堂で念を押された意味は何なのか、聖天様が怖い神様だと目にしたこと、私は一生信仰はできないだろうし、お守りを一度も粗末なく扱えると言い切れないので私が授かって良いのか迷っていること"を尋ねました。すると"確かに聖天様は神様なので私達の様な者に対して何をしてるんだ!と気づかせるイタズラはされます。でも一般の方にはないと思いますし、イタズラもせいぜい転ぶ程度です(私が心配する様な一生を左右するような罰はない)。一生信仰できなくても、綺麗に終われば良いです。願いが叶ったらお供えでも浄財でも構わないのでお持ちし、心を込めて感謝すれば大丈夫です。惹かれたということは心が呼ばれているということなのでお求めになれば如何ですか"と言われ、悩んだ挙げ句、"予め聖天様に、もし失礼があったら申し訳ないのですがお守りに惹かれ授からせてくださいとお参りしても良いですか"と聞くと、"良い事だと思います"と言って頂き、何の作法も知らずただ聖天様に手を合わせ、家庭の状況・観音様の参拝に伺ったがお守りに惹かれ授かりたいこと、もし粗相があったら申し訳ありませんと伝えお守りと共に帰宅しました。 その際はとても心強い安心した温かい気持ちになったのですが、その後も聖天様について調べてしまい、怖い気持ちが肥大し、そう思う事自体失礼で申し訳ない様な、でも分不相応な事に手を出してしまったような恐れを抱き質問致しました(以前の問答を読んだ上でまだ恐れてしまう自分がいます)。 お寺の方のお話をただ信じ、聖天様を触らぬ神に祟りなしと恐れず、他の仏様やお守りと同じ様に考えて良いのでしょうか?そもそも一生信仰とは何を指すのでしょうか?聖天様にお願いをしたら別の神様に同じお願いをしてはいけないのも本当ですか?

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ