純粋な信仰心をくじかれた
あるお寺で、私が感じていた「神仏のご加護」を皆「偶然」だと一蹴されました。純粋な私の信仰心を無下にされたように悲しくなりました。いくらお坊さんといっても、いろんな人がいるなとビックリしました。信仰心広める人が、逆につぶしてどうする?と意味わかりませんでした。
私がいうご加護とは、「良いことも辛いことも全て私自身が、それに感謝できた時。私がそう思えたこと自体がご加護」だと思ってます。
それもこれも神仏がつまり自分自身なのだ、と気づけたからそう思えるようになりました。まぁ、偶然だの必然だのは最初からないのでしょうけど。なんか心がモヤモヤします。もし私が、住職さんの真意をとりまちがえているにしても、もう少し言葉足して説明してもらわなければ「空」とか「無常」とかを踏まえて言ったのかそうでないのか?とにかく危うすぎるのでは?「偶然」のただ一言だけでは、と思いました。ただの素人に話してもどうせわからないからと思われたのならば仕方ないですけど。
お坊さんの考える「神仏のご加護」とは?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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私としては、世の中の出来事はよくよく見てみるとほとんどは偶然ではなく必然なのだと思います。縁や因果応報ということです。
ただ、物事に対する考え方や受け止め方は人それぞれなので、そのお坊さんの言うことも、あなたの思いも、どちらも間違いではないのだろうと思います。
少しモヤモヤするでしょうが、このお坊さんはそう考えるんだな、と思うだけで、あなたの思いが否定されたと深刻に受け止めなくていいと思いますよ。
あなたはあなたの思いを大切にしてくださいね。
世の中のことに感謝して生きることは素晴らしいことだと思いますよ。
良いことは嬉しいことであり、悪いことは自分をより成長させてくれること、そう思えば感謝する気持ちも自然に起きてきますね。
質問者からのお礼
ご丁寧にありがとうございました。同じご住職さまという立場の方から、そのようなありがたいお言葉をいただけて安心しました。
私からしたら、お寺のご住職さまといえばやはり親みたいな存在に感じていたので、自分と全く違う見解をいわれてショックだったのかもしれません。「自分の意見を肯定してほしい」との思いが私には強すぎたのかもしれません。気づかせていただきありがとうございました!