一点の曇りもなく
生きていれば、いろいろある。
辛いことも苦しいことも、尽きることがない。
でも、今の私には一点の曇りもない。
ただ乗り越えて、乗り越えて、乗り越えて…
この清々しさは、何なのか?
・仕事は資格より素質 ・鬱になろうが5才児ぐらい好奇心旺盛 ・順風満帆な人生より七転び八起きぐらいの人生がちょうどいい
職場で久しぶりに再会した人に「やっぱり~!」と言われることが苦痛
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
周梨槃特さんの修行
”今の私には一点の曇りもない”
大変結構なことだと思います。
でも、まだ不十分です。まだまだ不十分です。
洗いたてのシャツは気持ちがいい。
でも、袖を通した瞬間から汚れ物に変わるんだ。
掃除したての部屋は清々しい。
でも、掃除が済んだ瞬間からホコリは溜まり始めるんだ。
爪も髪も切った直後からまた伸び始める。
垢もフケも目糞も鼻糞も耳糞も、取り除いた直後からまた溜まり始める。
お釈迦様の十大弟子のひとり、周梨槃特(シュリハンドク)さんの修行から、我々はよく学ばなければなりません。
<追記>
”その中に、清々しさがあるのか?ないのか?”
周梨槃特さんは、自分の名前すらまともに覚えられないほど重度の知的障がい者だ。2500年前のインドでは、今の日本ほど福祉もしっかり整備されていないだろうし、様々なハンディキャップに対して世間的にも理解はなかったことだろう。そんな中、周梨槃特さんは「尊者」として釈迦の十大弟子に数えられるまでに至っている。少なくとも周梨槃特さんは、苦悩の連続の只中にいながらも、清々しさを見つけることができたんだ。だから、有るのか無いのかと問うならば、確実に「有る」といえるだろう。
如是我聞
お久しぶりです。
生きててよかったです。ありがとうございます。
最後の質問から半年弱ですか。それまでも色々あったのでしょうが、この期間も色々あったことと思います。
そして、それは死の瞬間まで続くのですよね。
苦悩がなくなり清々しさに至ると説く教えもあるでしょう。仏教も原理的、本質的、理想的にはそうなのでしょう。
でも実存的には苦悩が尽きないのが人間ではないでしょうか?少なくとも私はそうです。
そしてその私が目当ての教えもまた仏教にはあるのです。
質問者からのお礼
転落院様、お久しぶりです。お返事ありがとうございます。
曇りが出れば、磨くのみ。
真っ正面から、向き合うのみ。
次から次へと現れる病。
闘う毎日。
現実は暗い。
闇の中をさ迷う日々。
それでも、磨いて磨いて、生きるのが私の定め。
生涯修行が、私を強くする。
今の私には一点の曇りもないのは、今の私に苦悩が山積みだから。
苦悩に立ち向かうこと、立ち向かい続けること、曇りを磨き続けること。
辛く苦しいからこそ、得られるものがあるのではないだろうか…
その中に、清々しさがあるのか?ないのか?
それを教えていただきたい。
吉武文法様、お久しぶりです。お返事ありがとうございます。
生き残ったことですし、心機一転、お坊さまの皆様と同様、アカウントをありのままの自分に書き変えました。
実在するデータです。別に隠すことなど私には何もないので。
私はただシンプルに生きるのみです。
苦悩が尽きることはないでしょう。
それでも、時折、清々しさを感じるのです。
まるで、雲1つない青空のように。
何故なのか。
理由は分かりません。
ただ、苦しみを抱えて生きていると、ふいに見えなかった光が見えてくる時がある。
それが、例え一瞬だろうが、光がさす瞬間が訪れることがある。
説明のつかない事象も、ある…のではないでしょうか。
転落院様、追伸ありがとうございます。
私も障害者です。
健常者に混じって生きているだけです。
正直、落ち込むことも多いです。
でも、悔やんでいても仕方がない。
だから、前を見据える。
決して努力を怠らない。
救い、救われ、人として生きる。
清々しさは、ある。
稀かも知れませんが。