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実家に戻りたいです…

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結婚を決めた29歳の女です。
私は20歳で就職のため実家を離れ、9年間県外で暮らしていました。現在の場所で4年間付き合った彼との結婚を決め、少しずつではありますが準備をしている段階です。忙しさから多少の不安やストレスもありましたが前向きに楽しく準備をしていたつもりでした…
結婚前最後の帰省になると思い実家に少しの間だけ帰りました。家族や親戚の優しさに触れ、とても楽しい帰省にりました。実家から帰って来た次の日、仕事中に涙が止まらなくなり、「両親のそばにいたい」「このまま故郷に住めなくなるのは辛い」そればかり考えるようになり毎日只々泣くばかりです。毎年2、3回は帰省していましたが、9年間一度もこんな気持ちになったことありません。
突然このような気持ちに襲われ、自分でもどうしたらいいかわからなくなりました。
彼は私の故郷へ移るのは考えられないと言っています。
食欲もなくなり何もやる気がなくなりひどい状態です。いてもたってもいられず短いですがまた実家に帰って来ています。
私が実家にいた時は長年家族関係が悪く、そんな状況が嫌で実家を出てきました。ですが今は修復しています。自分勝手に家を出て、また戻ってきたい…たくさんの人に迷惑をかけている自分の身勝手さに腹が立つし悲しくなります。

長文になってしまい申し訳ありません。自分のことなのにどうしたらいいかわからなくなってしまっています。
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

イイ方法があります。

人間は結婚までは夢です。
ずっと彼と一緒に居たいと思います。
結婚すると夢が壊れます。
子供が生まれる前、生まれた直後は旦那としては「むしろ実家に帰ってくれないかな」とさえ思っています。口に出しはしませんが。このすばらすいー文化が里帰り出産です。
里帰り出産こそは女子の親離れの最後のイベントです。
生んだ途端女性は両親どころではなくなります。自分の子供を育てることに必死になり、同居人にこの苦労を味合わせたいとまで思ってしまう程です。(人によりけり)
ついに里帰りで実家に帰ったあなたは両親たちにかみつきます。
「この子が孫として可愛くないのかしら?もっと手伝ってよ。」独自理論を展開させて、自分が正義になります。ところがあなたという子供の子育て経験者の親は、子育て赤ちゃんのギャーギャーはもうウンザリな境地。「来てうれしいかえってうれしい孫の顔」というマントラが念仏の如くに脳内に響いています。
そして、めでたく旦那の所に帰ります。
一念過ごす中、子育て初経験男子のダンナは正直な所めんどくさくなります。
なぜ社会という戦場で戦っている俺にイクメンなる地獄を要求するのだ!妻の顔も笑顔で向き合えなくなります。(人によりけり)
そうして家庭は戦場へ。戦士たちにも休息が必要。
お互いにも両親がいます。
そこで、実家に帰るのです!!
実家に帰る名目は「親孝行!」よくできているでしょう。日本の家庭は。
その他、お盆、お彼岸、年末年始。
安心してください。いつでも帰れますよ!

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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