孤独に耐える方法
理不尽に思いながらも大手の海外にある会社で働いてきました。父が亡くなり、日本に戻ってきたときには、お金が少なくていいから楽しそうな仕事と思いましたが、どこでも、一緒でした。嫉妬と競争です。また、目が悪くなり事務ができなくなっているのに気がつきました。
何か資格があるわけではないのですが、英語が出来たので、通訳を1つ請け負いました。これをマスターしよう、これなら、競争者がいないと思いました。
でも、通訳の学校に行ったわけではありません。高額ですから。また、その間、他の仕事ができないのは困ります。2つ目の依頼がきました。すごく、迷いました。でも、なんの繋がりもない私なので、ここで、断ったらもう来ないような気がして、並みに乗っているうちに取ろうと思いました。自身は、全くないですが、なんとかなるだろうと思いました。ダメだったら、撃沈だな。と。撃沈したら人と会っても面白くないだろうし、豪華に遊んで暮らせないけど、一人で細々なら暮らせると思いました。
で、撃沈しました。物凄い孤独、息苦しく、足が立たないような孤独を過去に感じたことがあります。あれが、また、来るんだなと思いました。
あの孤独に再度、耐えれるだろうかと不安になります。案外、早く死ねるかも。そしたら、蓄えもいらないとも思いましたが。実は、私は、至って健康です。また、要介護一の認知が出ている母を幸せにできるだろうか、母が悲しむと自分は辛くなります。それに耐えられるだろうかとすごく不安になります。
今、思うのは、朝のランニングを続ける。好きな英語の勉強を続けるです。そして、雑念を取り払いたいです。母は、とても愛おしく悲しませたくないです。今は、誰とも会いたくないです。母がそれに感づいて色々言わないか心配です。
執着 迷い、欲望
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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究極の孤独、真の静寂は、孤独も寂しさすら超えていました。
人間って身を守りたい気持ちが先立つ生き物なのです。
だから、何をするにも自分第一、我が身第一。
それは別に悪いことではありません。
ですが、防衛反応も過剰になり過ぎると、真実を見ようとしなくなる。
おっかない上司や一度嫌いになった相手を本当に見ようとしなくなると、かえって危険なことが生じるものです。
それは、本人では無いもの、相手の幻影を自分の中に生じてその相手を恐れるようになる。
それは本当は自分の幻影。自分の精神作用。
実は、孤独感や、孤独への恐怖不安も同じです。
本当に孤独になる前の状態こそが苦しいのです。
今私も深夜で誰も起きていない状態ですが、孤独なんてありません。
学生時代に孤独で悩みました。
ところが一人暮らしで、自分に本当にむきあうようになると、相手にしていたものは全部自分の思いでしかありませんでした。
孤独に完全降伏、完全敗北すると孤独への恐怖も何もなくなっちゃうのです。
嫌いになった人に出会う前から怖がっているようなものです。
実際に孤独に「徹して」みる。
するとそれはもはや孤独ですらなかったのです。
思いのつけ足しが生じないからです。
人間そもそもが生まれた時にかぁちゃんがそばにいたとしても、それでも自分の命は自分の命を生きているものです。
私が孤独だと妄信していたものは、失うものがある状態でした。
厳密には、失うんじゃないかという恐怖がいつも先だっていたんですね。
なんといいますか、プライドみたいなもの。
勝手に想像するもの。
まさしく顛倒夢想。
ありもしないことや、実際とは違うものの見方。ひっくり返しにものを観ること。
そういうものを人間いつしか持っちゃっている。無いものをあるように錯覚している。
プライドも不安も恐怖も。
握るものが無くなる人はどこへでもだれにでも頭も下げられるし、子供にもバカにされていられるし、今日は節分でしたから鬼もやれますし、朝方は地元で野菜のタネや美味しい野菜づくりを一生懸命やられた方の90代の方のお葬式でした。坊さんとして人生の大先輩方に思ったことも言えるようになる。じいちゃんばぁちゃんとも仲良くやれます。
私というイッコの存在に徹すると、この自分の活動をやるだけになる。
カッコつけたりお飾りが要らないようになるのです。
そういうところまで孤独の正体を見抜いてみると人生面白いと思います。真の静寂は孤独すら超える。
質問者からのお礼
お礼を書いていたのですが、消えたみたいですね。物理的には孤独でも心の繋がりを感じれば暖かみを感じるような事を書いたような。ありがとうございました。また、相談させてくださいね。