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個性的なのはそんなに悪いことなのですか?

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こんばんは。

個性的な自分が好きなのに、そのことで後ろ指指される事が苦痛で、悩んでいます。

私は、日本人の一般的な、いわゆる普通の女子高生とはちがい、かなり奇抜でぶっ飛んでいる格好をしたり、性格もちょっと変わっています。
元々、芸術が好きで、感性が独特だと自分でも思います。外内ともに万人受けするような感じではありません。

好きになってくれる人は好きになってくれますが、嫌われることも多く、後ろ指を指されたり、白い目で見られることも多いです。
 いじめにあったりしたことはありませんが、学校ではなんとなく居辛い気持ちになります。
先生からは扱いにくい言うことを聞かないヤツと思われていたでしょう。上から物を言われて、従いなさいと言われても自分が納得出来ないと全く言うことを聞かなかったです。

だんだん人との関係性に行き詰まって、私学の高校を2年前に辞めました。今は通信高校に在籍しています。

私は、自分のそういうところは好きですし、自分が望んでやっている事なので、後悔はありません。

でも、ヒソヒソと自分の噂をされるのが我慢できません。人間不信になってきました。どうして、この国では自分と違う人のことを叩きたがるのでしょう。もう外に出るのも億劫で、電車も怖いし、男も怖いし、他人なんて大嫌いです。
だからといって、自分を曲げたくないです。私は何も間違ってないし、何も悪いことはしていません。

昔、中学の先生に、「人と違う道を行くのはとても辛いことだよ何があっても人のせいにはできないよ」と言われました。その時はどういう意味かよくわからなかったけど、今ならよくわかります。

日陰でコソコソなんて生きたくありません。でも日向に出るにはとても怖いです。何されるかわかりません。

他人は変えられないし、人の合う合わないはあるのが当たり前ということは理解できます。でも私が辛いことは事実です。誰に相談しても気にするなと言われますが、流せないから今、こんなにこじらせています。自分を変えたいけれど、変えられない。他人に合わせたくなんてないけれど、そうするしか楽になれない。本当に辛いです。
今の先生には、自分の軸が無いと言われました。

質問になっておらず、まとまりのない文章でごめんなさい。
皆さんにどういう答えを望んでいるのか自分でもわかりません。
でも何かご回答頂けると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

凝り固まった個性より、何にでもなれる自由さを持った個性✨

こんにちは。個性強すぎキャラ強すぎ、後ろ指さされ組のいつか背中さされ僧の一本足りない凡下と申します。私もかなり奇抜で仏ッ飛んでる感じです。(´Д`)オトコですみませんが、仏教的にはホトケ心って男女とかない心の周波数なんで、そんな感じで受け止めて頂ければありがたいです。
今の世の中はホンットに同調圧力でみんな同じ感じに生きなきゃいけないような風潮がオボーサンの世界にもあります。あると思います。いや、絶対あります。
私はみんなと同じ漢字のオボーサンぽい組織組織したオボーサンたちがあまり好きにはなれません。自分があまりにも奇抜だからでしょうか。ですが、これでも一時期みんなと同じように出る杭うたれないよーにしていましたが、ストレスで即日しにそーになりました♡嘘つくのってーイヤじゃないですかぁー。だから、自分は自分でいるだけです。禅とか仏教を学んでいる内に「ああ、私ってないんだなぁ。」っていうサトリ的気付きを得ました。
私がないっていうのは、私らしさや、固定的キャラ。作った自分。自分ぽさ。
そういうもの全部仏ッ飛んだところにホントーの私らしさってにじみ出てくるんです。ショーユのボトルで酸化しない「鮮度の一滴」のボトルの最後の一滴を出し切った後って、醤油はカラッポですけどペットボトルさんはようやくショーユから解放されたわけでもあるのです。
だから、自分の中のおショーユを今、考えていることも含めて全部出しきっちゃった方がイイんだと思います。自分が今抱えちゃっているおショーユも結局、自分というか「誰かから言われてそうした方がいいカモ」とかって思っているだけで、必ずしも絶対にそうした方がイイっていう訳でもないからです。フツーのペットボトルだって空っぽになった方が本当の使い道も出てくるのです。いま中に入っている液体やドリンクだけの為に存在しているわけではないから、あなたをそのカラーに染めているものも絶対真実・永遠普遍の真理ってわけじゃないから、一度それもポインチョしちゃった方がイイです。
そうすると初めて本当に空っぽになるから、そこから縦横無尽の活躍ができるようになるのです。最初から自分のキャラを固定的に決めている人って、ネタの無い芸人さんみたいで不自由な生き方をするようになっちゃうからです。
個性的であってナンボだと思います。
でもその個性はもっともっと自由でいいんですよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元さん、ご回答ありがとうございます。

同年代の男の人が好かないだけで、ここのお坊さん方は怖くありません。語弊がありましたね、すみません。

少し私にはまだ難しいです…。好きなことを手放すようで
でも、励みになりました。お坊さんにもそういう同調性があるのですね。むしろ、そういう世界こそ、個人を認め合う事に重きを置きそうな気がしますが、逆なのですね。やはり日本だからでしょうか。

ありがとうございました。

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