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やる気が出ない

回答数回答 1
有り難し有り難し 21

一昨年、不安障害で入院しました。今は通院して、作業所も通って、前よりも回復はしているですが、やる気が出ない事で悩んでいます。週のはじめあたりは気持ち的に楽なのですが、だんだんと辛くなってきます。入院する前は元気で勉強も武道も仕事も生きがいに感じ、友達もたくさんいました。今では全く反対の生活をしていて、毎日が淋しいです。そのためか、何事にもやる気が出ず、さらに、友人の死などで更に自分もいつかは死ぬのではないかと不安です。
どうかよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「やる気が出ない」ということを選択してやっている、と知る。

ABCDEという5つのやらなきゃいけないことがあるとします。
Aをやるにもきっとダメだろう。
Bはまだちょっと無理かもな。
Cは最後にしよう。
Dだけは気が進まない。
Eなんか無理無理。
結果的に、
Fはぁ~、やるきがねぃ。立つ気もねぇ。仕事をする気も、何にもねぇ。(IKUZO風に)
という状態に陥っちゃうのが人間というものです。
それをやっているのです。
「やらない」をやっている。
ABCDEを考える度に気が沈んでグダー状態をやっているのです。
試しにこれを読みながら今すぐ立ち上がって、2回スクワットをしてみてください。
他の皆さんもやってみてください。
左を見ましょう。
はい。
右を見ましょう。
はぁ~、上見て頂戴、してみて頂戴、ひだりィ、みぎィ、前後ろ。(IKUZO風)
やれたはずです。
この位やれるはずです。
そんなことならできるという話じゃありません。
見知らぬオッサンからやってごらんと言われて、見知らぬオッサン(わたし)から右向いて左向いてとかで、動いてしまうこの体の「無条件さ」「無我」に気づいて頂きたいのです。

自分の心を縛るのは自分。自分のルール。自分の思い込み。自分のとらわれ。
そこから離れるためには、思っていることを優先せずに、今からテポドンが飛んでくるとでも思ってすぐに行動に移すべきなのです。
今知らずに、このページを読めていたはずです。
やる気がないなら、読む気すらないはずです。
質問すらする気が無いはずです。
大丈夫です。
あなたがあなたの自分の思考トラップ、思いかたに騙されずに、今やれていたことに自信を持ってください。
さあ立ち上がって、夕食の準備なり食べるなりしましょう。
その時に、無心に(無私心を無心という)箸やスプーンを持っている自分の自由さに目を向けましょう。働きとは、この自己の身心の働きの事。
この自己の身心を働かせれば自然にお仕事も働かせることもできるのです。
自分の条件付けに騙されずに、思考優先ではなく、体の動き優先に行動してみてください。
「ああ、本当だ。いま、条件なしに動いていた私がちゃんとある。」と気づけるようになるはずです。この文だって、普通にスラスラ読んでいたのですから。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。気を楽にやってみます。

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