おおらかに生きる
法は法でも世俗の法を学んでいる者です。
しなやかに生きる心構えについてお聞きしたく存じます。
つい先日、法話をうかがう機会がありました。
その和尚さんは「大いなる哉心や」を引いた上で、心に限界を設け縛りつけているのは自分自身だとおっしゃっていました。
法律を学ぶ学生の世界はなかなかにストレスフルです。
学ぶこと、学び続けること自体には不安や不満を感じてはいませんが、誰かと比べられ、数字をつけられ、それをまた比べられ……というプレッシャーに重装備した心で立ち向かい、空回りする日々が続きました。「なるようになればいい」と思っていた頃もあったはずなのに、過去の失敗や将来への不安に囚われ、肝心な時に限って上手くいかないこともありました。何のために法を学んでいるのか、目の前で困っている人に手を差し伸べるためではなかったのかというもっとも根本的なさえ、卒業を前にした今まで忘れかけているような有様でした。
なるほど、私を囚えたのは私自身だったのか。法話に膝を打ってはみたものの、それでは時間をかけてガチガチになってしまった心をどうほぐしたものかと思いあぐねています。いびつな形でありながらも平和に共存している二つの民族が、血で血を洗う戦乱を繰り広げ憎みあった記憶を取り戻すことの意味を問うた小説を読んだことがあります。私もまた心を塗り固めて抑え込むことでやっと踏ん張ってこられたのではないのかという恐れを感じているのです。
巧みなる画師であるところの心にのびやかに過ごしてもらうためには、日々どのように考え過ごせばよいでしょうか。アドバイスをいただけますと幸いです。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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糸の弛緩のタイミングを大切に!
質問読ませていただきました。
私も僧侶をしながら大学で法律を学び、一時期は弁護士を目指した身ですので南北さんの葛藤は少し分かるような気がします。
さて、法で悩む人へ手を差し伸べるという志しはとても素敵なものです。法治国家である日本においては、法を熟知した人が法に疎い方を陥れたりすることもありますよね。
真っ直ぐ生きていても、法を知らないために多大な不利益を受けると言うことも日常茶飯事におこっています。
そんな方をなんとかしてあげたいという南北さんの心は、とても慈悲に溢れているのでしょう。
ところで、法に悩む人に手を差し伸べるというのは色々な方法が考えられます。弁護士を目指す、司法書士を目指す、行政書士や他の資格試験を目指すといったものも1つです。
もしくは、法の知識を蓄えて法曹界とは異なる道へ進むという方法もあります。私も、弁護士にはなれませんでしたが、学んだ法の知識で御信者さんにアドバイスしたりなんてこともしております。
このように色んな方法がありますが、自分の進もうしている道次第では、やはり周りや数字と戦わなければならない時期があります。
心をほぐすというのはとても大切な事です。釋師のおっしゃるように張り詰めすぎはいつか切れてしまいます。しかし、自分の目的を叶えるための過程に置いては、歯を食いしばることも必要となります。
ですので、上手に気分転換をする術を身につけ、自分の夢の初心をしっかり胸に刻みながら前に進むことを忘れないで下さい。
過去の失敗も将来の不安も、自分が一歩ずつ進んでいくことで必ず解消されてきます。一歩進めば過去の失敗は経験に変わって活かされ、一歩進めばまだ形として見えない将来が少しずつ具現化してくるので不安は解消されてくるからです。
そして、一歩進むたびに少し心の緊張を緩めてあげればいいのではないでしょうか。
夢を叶えるためには、緊張の糸の弛緩のタイミングが大切ですよ。そのタイミングが自分で上手に掴むことが出来れば、普段の生活でも充足感を持っていけるはずです。
なかなかうまくいかないこともあるでしょうが、頑張るべきときは気分転換と初心を心がけて前を向きましょう。その歩みを進める中で見えてくるモノもありますよ。
何か少しでも参考にしてみて下さいね!
頑張る事も時には必要ですが
普段から頑張り過ぎていると緊張の糸はいつか切れてしまいます。
私は趣味でギターを弾くのですが、弦楽器には丁度良いテンションで張らないと、きつ過ぎると切れてしまい、弱過ぎると音が出ません。
人間の精神も同じではないでしょうか?
緩め過ぎても駄目、かと言って法を学び始めた最初の目的を忘れる程の張り詰め過ぎでも、いつか切れてしまいます。
自分なりのいい塩梅というものを見つけてみて下さい。
質問者からのお礼
釋様
藤川様
お二人ともお忙しい中ご回答いただき、どうもありがとうございました。おかげでさまで、少しずつ考えがまとまってきたように感じています。
緊張の糸の弛緩のタイミングが大切だというのはおっしゃる通りですね。きちんと気分転換をするということ自体忘れてしまっていたようで、糸が切れかけていたと気づいた今になってみれば、休もう、休んでもいいんだという不思議な感慨さえあります。
そこに限度があることも承知しています。私の問いも思い返してみれば、どのように休めばもっとも上手くいくかと考える戦略的な私が、努力しなければならないと所構わず正論を振りかざす私に殴りかかられ、戸惑った末に投げたものだったというのが実情かもしれません。「いいの?本当に休んで?」「押さえ込んできたものが解放されてもっと酷いことにならない?」と。
この迷いを捨てて、おおらかに構えていれば自然と湧き上がってくる力をいかにそのままにしておくかという問題さえ片付けてしまえば、それができても駄目かもしれないというのは実のところ不安というほどの不安でもありません。ここは不思議と能天気なもので、今日の悩みが明日の笑い話になっていればいいなと一息ついて、これからの一日一日を気楽に頑張ってみようと思っています。
この度はたいへんお世話になりました。
末筆ではございますか、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。