壊れた心を抱える中でも、自暴自棄にならず生きて行きたいです
初めまして。この度自分の悩みについて書かせて頂きたく、また読んで頂けたら嬉しいと思いまして、投稿致しました。
私はある暴力被害のために、酷いトラウマを負わされました。
その加害者は、この他にも酷い事をしていたのに、何も裁かれず、誰も非難もせず、
逆に、社会運動やインテリの人達の世界ではちゃんとした知見を持った人として支持され、受け入れられていることを知って、
酷い絶望と衝撃を受けました。(その加害者は外面が良く、裏の顔を知っている人は殆どいないようでした)
私はそれが耐えられず、心がボロボロになり、号泣する思いで「馬鹿馬鹿しい、やってられるか!」と思い、
社会運動、教養関連の一切の事を忘れたくて、それらを忌避するようになってしまいました。
社会も法も裁いてくれないのなら、私にはもう地獄です。
因果応報など大嘘だと、強く思います。
私はどんどん希望や拠り所を毟り取られるし、もう疲れ果ててしまったんです。
傷が癒えるには、もうあの世に行くしかありません。
結局この世は「勝てば官軍負ければ賊軍」で、
汚れやら錆やらを他人にスイスイと押し付け、
自分は綺麗な存在として軽やかに転身し、スマートに生きる人が勝ちなのかも知れません。
真っ当に、コツコツと地道に生きて行くのが馬鹿らしくなる時が、しばしば有ります。
違法薬物を買える場所を探したり、違法賭博を行うことを考えたこともあります。
私が心ある人にも見放され、やがて孤独になって、蛆虫らしく死んで行くのはもう確定しています。
時々自暴自棄になって、もう犯罪者になってしまってもいい、死刑になっても、
最期は刑務所の中で死んで行っても良いじゃないか、
という思いさえ萌します。
安楽死が認められるなら、自分の傷付きを遺書に書いて、然るべき人に託したい、と思うこともあります。
実は何人かの方に、私が暴力被害者の方を救えるかもしれないとおっしゃって頂いたのですが、
私が誰かを救えるとも思えないし、他に優秀な人材は何名もいらっしゃるし、
申し訳ありませんが、意義ある仕事なら、私でなくても誰かがやるから良いだろう、とさえ思います。
おかしなことを言っていると、笑って下さっても構いません。
自暴自棄にならずに、心を鎮めて生きていくアドバイスを頂けましたら、非常に幸甚に存じます。
どうかよろしくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
因果応報は道理(そのままの法則)
初めまして。ご相談拝読しました。
暴力被害に遭われたということで、本当に心身ともに痛み、また様々な憤りや悲しみもお抱えの事と思います。
ご質問本文にはあなたの逡巡、葛藤の様子が綴られていますが、タイトルや末文においてあなたが「それでも生きていきたい」そして「いかに生きるか」という思いに着地していることが表されていることに敬服致します。
お一人で抱えて闘ってこられたのですね。
様々な気持ちも浮かび消えすると思いますが、どのような気持ちも縁によるもの、無理やり否定したり自責する必要はありません。あなたはきちんと着地点を見失わずにおられますが、時にはそこからも迷う時もあるでしょう。そういう時は頼ってくださいね。
さて、因果応報ですがこれは結果には原因がある。原因があって、条件が整って結果が生じるという当然の道理です。
その加害者は「暴力」という原因により「あなたの信頼を失い恨まれている」という結果を受けています。また、あなたが納得のいかない面においても、「ちゃんとした知見を持った人だから」という原因により「支持され、受け入れられている」という結果が生じています。
きちんと道理の様になっているのです。もちろん今その加害者は「陰では暴力事件を起こしている」という縁(条件)を抱えているのですから、それがバレるという原因が生じればそれに応じた結果の報いを受けることと思います。
私たちがこの因果応報の道理を受け入れられない時と言うのは、私が思う善いことは私が思う善い結果を生んでほしい、私が思う悪いことは私が思う通りの悪い結果を生んでほしいという善悪のモノサシが自分の思い基準になっている時なのだと思います。自分の中で善悪の勘定が合わないと納得できないということでしょう。
ですが、実際私たちは納得して生まれて来たわけでもないし、この世で起こる全てのことに納得しているわけでもない。それらは私の納得以前に道理として起こるべく起こっている。
しかし、いざ自分のこととなるとこの道理に頷けないのが私たちなのだと思います。
その自分の有り様をよく知りましょうというのが仏教の教えです。道理を知ったからといって聖人の様に生きられるわけではありません。しかし道理を知らない事には考える事も受け入れることもできないのだと思います。
訴えなければ事件にならない
辛いことだと思いますが、暴力というのは、被害者が訴えないと事件にならないのではないでしょうか。
野性動物の世界で考えてみると、外敵からの攻撃に対して、闘わなければ身を守れません。
新たな被害者を出さないためにも、通報や告訴をした方が良いと思いますが、難しい事情があるのでしょうか?
押しボタン信号を押せば青になるのに、ボタンを押さずに「世の中の車は歩行者に優しくない」と愚痴るのは、順番が違います。
ボタンがあるなら押してみる、法律があるなら使ってみるのが、まずやるべきことでしょう。
これは闘いです。
勇気を出す必要があります。
なお、因果応報ですから、加害者にはそれ相応の苦しみが必ずやってきます。
加害者がストレスを感じやすい性格になって苦しむとか、来世で苦しみが多い境遇に転生するとか、なかなか悟れないとか。
悪いことをすればするほど、悩みやすい苦しみやすい性格になるのです。
外見ではわからなくても、たとえば、社会的地位もお金もあっても、ひどくストレスを感じやすい性格なら、苦しいでしょう。
質問者からのお礼
お返事を頂き、誠に有難うございます。
私には勿体無い、温かいお言葉を頂き、本当に嬉しいです。有難うございます。
私は複数の原因と結果を混同し過ぎていたと思います…
また、自分の思いばかりが先に来すぎていたと思います。
加害者を全否定しようと躍起になるあまり、自分が醜い鬼に、低劣で下卑た存在に、成り下がってしまっていたと思います。
「後出しジャンケン」になってしまって大変心苦しく申し訳ないのですが、
自分から動いて声を上げる為に、自分が出来る限りの事は、ほぼ全てしたつもりです。
法律の専門家への相談、フェミニズムの分野で活動される方にお伝えする事、以前入っていた社会運動団体で声を上げる事、カウンセリングでの相談等…
しかし被害からかなり時間が立っていることもあり、証拠集めも難しく、立件や、加害者を法律で有罪にすることは困難だと言われてしまうことが、しばしば有りました。
また声を上げても、何のお答えも頂けない事も、よく有りました。
もう力が尽きてしまいました…
因果応報の事、少しでも望みを懸けたいです。少なくとも自分に関しては、本当だと思うからです。
ここまで読んで下さって、有難うございました。