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曹洞宗での不動明王とは

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こんにちは。

私は曹洞宗の檀信徒です。

密教寺院での不動明王の護摩焚きに参加しています。

密教での、不動明王の位置づけはだいたいわかるのですが

曹洞宗では、不動明王というのは存在しない。
お経でもでできませんし、
ただ地元で曹洞宗のお寺に不動明王の像がある寺が
ありますが、そこにはどなたもいない僧侶ふざいの荒れた寺です。

あくまで、不動明王というのは密教での仏様だけをいうのでしょうか?

よろしくお願いします。

2019年2月18日 13:14

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己の本心が不動明王でしょう

坐禅して自己の本来性を達観してみれば、諸仏とは皆自身「はたらき」のことだと分かります。
外にあるホトケ、外に描かれる仏としないのが、曹洞宗と言いましょうか、禅宗のいわゆる仏像の捉え方です。別にこれはウソでも、なんでもなく本当のこと。
観音様の慈悲も智慧もみな無我にして円成する自己身心中の本有の功徳。不動明王の憤怒の形相であらゆる人間を苦しめる心を断ち切り、焼き尽くすのも皆、自身の中にそういう働きがあるという事です。

坐禅とは静慮。
自己の心を見つめて人間の見解を離れ切った様子。
行住坐臥、立つも歩くすわるも食すも坐禅にあらざる時は無し。
人間の本来の様子は「人間の思い込んでいる姿」をしていない。
法としての活動です。
その法のありようを仏像はあらわしているのです。
イカメシイ顔も優しい顔もともに悟り、菩提、無上の叡智に導かんとする慈悲の心。
身心の盛んな出しゃばり、しゃしゃり出る、自我の見解を片っ端からたたっ斬る慧剣。
羂索をもってブレ、ズレの無いところに縛り付けておいてくれる動ぜざる働きとは、人間の考えではない処。非思量。不思量。
そういう心地、本地を不動心とは申すなり。
場所のことではない。
心のありようのこと。
坐禅、禅定、三昧、静慮。
自身を自身が見守っているまなざしは仏の慧眼。

そういう生き方がある。そういう態度がある。
そういう心がある。そういう処し方がある。
そういう行じ方がある。

自らお不動様、自ら不動明王となって、人間の中の人間を放下して、我もエゴも捨てて捨てて静かに向き合うところ、誰にでも本有の不動明王は必ず現れるのです。
別にそれはいわゆる仏像の不動明王のカタチをしているわけではない。
それよりももっと素晴らしいありようとして生き生きと現れる。
「ああ、ここか。このことか!」と明らめるまで、自身の中に求めてみるとよいでしょう。
絵空事ではないということがハッキリするでしょう。

不動明王とは外の仏にあらず、自己の本来性なり。
無為無作の功徳なり。
事に処してことに転ぜられず、私情私心の無き寂黙の相。
明らめ得れば諸々の煩悩を離れ、菩提を究尽す。

2019年2月18日 22:48
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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

日本海も太平洋もインド洋も1つの海

あまり盛んではありませんが、曹洞宗でも法事の十三仏信仰で不動明王が挙げられています。
位置付けは?と聞かれると答えに困ります。と言いますのも、道元禅師は「あの仏とこの仏と別人とか、菩薩は仏より劣るみたいな拝み方をしてはいけません。一切諸仏として拝みましょう。」というスタンスなんです。
そしてもう一歩踏み込めば、あなた自身が不動明王として、一切諸仏として生きましょうというのが修証義の締めの一節です。

2019年2月18日 19:06
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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

質問者からのお礼

お忙しい中、ありがとうございます。心のもやもやがだいぶとれたようです。他の宗派でごまたきに参加したときや、住職が仏像に念?を入れるとそれがあたかも力をだすような事を他の宗派のお寺で言われ、高額の仏像を買いましたが、自分の考えを違い、そのお寺の仏像を拝むことこそが仏の力を得ると感じ、自分自身の心より仏像という個体に固執していました。霧がされたような感じです。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

小屋から出てきた仏像について

先日、祖父の家の物置小屋を探検していました。私が知っているのは、祖父の家は江戸時代から13代続く家です。 そのため、小屋にはなんか凄いの入ってそうだな、という木箱や竹籠が沢山あります。 色々見ていたところ、主に朱塗りのお膳セットや陶器でした。 しかし、父がふと この木の棒なんだ? と、足元の樽の上にあったものを手に取ると。 仏像でした。私は仏教は好きでお釈迦様の教えなどは好んで知ろうとするのですが、仏像に関しては分かりません。 その仏像は30センチくらいの立像で観音様でしょうか。 スラッとしていて右手は人差し指と親指をくっつけて上を向き、左手は下を向いている美しい仏像でした。 仏像の乗っている台の下には 先祖代々永享元年 と書かれており、調べてみると室町時代だとか。 もうひとつも立像で、胸の下あたりに法界定印(調べました)を組んだ お地蔵さま?お釈迦様?です。 これは、年代は不明です。10センチから15センチくらいです もうひとつは、20センチくらいの扉のついた彫り物です。3センチ程の人物が3人いて、御一方は不動明王様でした。 長くなりましたが、無造作に埃まみれの小屋において置くのも嫌だなと、見つけたのも何かのご縁かと思い、汚れを拭き取り綺麗にしました。 これらは、仏壇で一緒に手を合わせていいものでしょうか。 良ければ教えてください。曹洞宗です。

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本尊とお唱えの対応関係

 こんにちは。当家の菩提寺は曹洞宗なのですが、「うちのお寺のご本尊は歴史的な経緯から阿弥陀如来なんですよ」と住職に聞きました(あまり大きくもないこともあり、それまで遠目にはわからなかったんです)。宗派の本尊と各寺院の本尊が一致してないことはよくあることですので、それ自体はへえそうなんだ。ぐらいの感想でしたが、ちょっと後で考えてしまいまして。というのも、その阿弥陀如来様の前に「南無釈迦牟尼仏とお唱えしましょう」という掲示があり、ずっとそうしてたんですけど、目の前におられるのは釈迦如来じゃありませんよね・・・?「南無阿弥陀仏」じゃないんでしょうか??みんなに目の前で「南無釈迦牟尼仏」と言われて阿弥陀如来様はどう思われることなんでしょう?両方唱えてみるべき?  実は、法要の際に住職が「南無釈迦牟尼佛・南無高祖承陽大師・南無太祖常済大師」と列挙している部分に一言「南無阿弥陀仏」と挿入していたことがあり、おお!ここで配慮してたのかと得心したんですが、逆に言えば阿弥陀如来関係はここだけです。そもそも、曹洞宗のお経は釈迦如来や観世音菩薩関係のものばかりですよね。  寺の本尊もしくは各家庭の仏壇の本尊と、お唱えやお経って、必ずしも対応してなくてもいいものなんでしょうか?多分いいんだろうけど、なんでなんでしょう?(だって、そうじゃないと薬師如来や地蔵菩薩や不動明王のお経なんか唱えたくてもまず唱えられませんよね。)如来や菩薩は相互に「私の前で誰それからこんな読経があったよ」と報告してくださってるのか、それとも上司不在時の代理決裁のように宛先が別の如来でも処理してくださるのでしょうか?このあたり、どう理解したらいいものなんでしょうか、よろしければ回答お待ちしております。

有り難し有り難し 11
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