hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

曹洞宗での不動明王とは

回答数回答 2
有り難し有り難し 69

こんにちは。

私は曹洞宗の檀信徒です。

密教寺院での不動明王の護摩焚きに参加しています。

密教での、不動明王の位置づけはだいたいわかるのですが

曹洞宗では、不動明王というのは存在しない。
お経でもでできませんし、
ただ地元で曹洞宗のお寺に不動明王の像がある寺が
ありますが、そこにはどなたもいない僧侶ふざいの荒れた寺です。

あくまで、不動明王というのは密教での仏様だけをいうのでしょうか?

よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日本海も太平洋もインド洋も1つの海

あまり盛んではありませんが、曹洞宗でも法事の十三仏信仰で不動明王が挙げられています。
位置付けは?と聞かれると答えに困ります。と言いますのも、道元禅師は「あの仏とこの仏と別人とか、菩薩は仏より劣るみたいな拝み方をしてはいけません。一切諸仏として拝みましょう。」というスタンスなんです。
そしてもう一歩踏み込めば、あなた自身が不動明王として、一切諸仏として生きましょうというのが修証義の締めの一節です。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

自己の本心が不動明王でしょう

坐禅して自己の本来性を達観してみれば、諸仏とは皆自身「はたらき」のことだと分かります。
外にあるホトケ、外に描かれる仏としないのが、曹洞宗と言いましょうか、禅宗のいわゆる仏像の捉え方です。別にこれはウソでも、なんでもなく本当のこと。
観音様の慈悲も智慧もみな無我にして円成する自己身心中の本有の功徳。不動明王の憤怒の形相であらゆる人間を苦しめる心を断ち切り、焼き尽くすのも皆、自身の中にそういう働きがあるという事です。

坐禅とは静慮。
自己の心を見つめて人間の見解を離れ切った様子。
行住坐臥、立つも歩くすわるも食すも坐禅にあらざる時は無し。
人間の本来の様子は「人間の思い込んでいる姿」をしていない。
法としての活動です。
その法のありようを仏像はあらわしているのです。
イカメシイ顔も優しい顔もともに悟り、菩提、無上の叡智に導かんとする慈悲の心。
身心の盛んな出しゃばり、しゃしゃり出る、自我の見解を片っ端からたたっ斬る慧剣。
羂索をもってブレ、ズレの無いところに縛り付けておいてくれる動ぜざる働きとは、人間の考えではない処。非思量。不思量。
そういう心地、本地を不動心とは申すなり。
場所のことではない。
心のありようのこと。
坐禅、禅定、三昧、静慮。
自身を自身が見守っているまなざしは仏の慧眼。

そういう生き方がある。そういう態度がある。
そういう心がある。そういう処し方がある。
そういう行じ方がある。

自らお不動様、自ら不動明王となって、人間の中の人間を放下して、我もエゴも捨てて捨てて静かに向き合うところ、誰にでも本有の不動明王は必ず現れるのです。
別にそれはいわゆる仏像の不動明王のカタチをしているわけではない。
それよりももっと素晴らしいありようとして生き生きと現れる。
「ああ、ここか。このことか!」と明らめるまで、自身の中に求めてみるとよいでしょう。
絵空事ではないということがハッキリするでしょう。

不動明王とは外の仏にあらず、自己の本来性なり。
無為無作の功徳なり。
事に処してことに転ぜられず、私情私心の無き寂黙の相。
明らめ得れば諸々の煩悩を離れ、菩提を究尽す。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中、ありがとうございます。心のもやもやがだいぶとれたようです。他の宗派でごまたきに参加したときや、住職が仏像に念?を入れるとそれがあたかも力をだすような事を他の宗派のお寺で言われ、高額の仏像を買いましたが、自分の考えを違い、そのお寺の仏像を拝むことこそが仏の力を得ると感じ、自分自身の心より仏像という個体に固執していました。霧がされたような感じです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ