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曹洞宗での不動明王とは

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こんにちは。

私は曹洞宗の檀信徒です。

密教寺院での不動明王の護摩焚きに参加しています。

密教での、不動明王の位置づけはだいたいわかるのですが

曹洞宗では、不動明王というのは存在しない。
お経でもでできませんし、
ただ地元で曹洞宗のお寺に不動明王の像がある寺が
ありますが、そこにはどなたもいない僧侶ふざいの荒れた寺です。

あくまで、不動明王というのは密教での仏様だけをいうのでしょうか?

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日本海も太平洋もインド洋も1つの海

あまり盛んではありませんが、曹洞宗でも法事の十三仏信仰で不動明王が挙げられています。
位置付けは?と聞かれると答えに困ります。と言いますのも、道元禅師は「あの仏とこの仏と別人とか、菩薩は仏より劣るみたいな拝み方をしてはいけません。一切諸仏として拝みましょう。」というスタンスなんです。
そしてもう一歩踏み込めば、あなた自身が不動明王として、一切諸仏として生きましょうというのが修証義の締めの一節です。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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自己の本心が不動明王でしょう

坐禅して自己の本来性を達観してみれば、諸仏とは皆自身「はたらき」のことだと分かります。
外にあるホトケ、外に描かれる仏としないのが、曹洞宗と言いましょうか、禅宗のいわゆる仏像の捉え方です。別にこれはウソでも、なんでもなく本当のこと。
観音様の慈悲も智慧もみな無我にして円成する自己身心中の本有の功徳。不動明王の憤怒の形相であらゆる人間を苦しめる心を断ち切り、焼き尽くすのも皆、自身の中にそういう働きがあるという事です。

坐禅とは静慮。
自己の心を見つめて人間の見解を離れ切った様子。
行住坐臥、立つも歩くすわるも食すも坐禅にあらざる時は無し。
人間の本来の様子は「人間の思い込んでいる姿」をしていない。
法としての活動です。
その法のありようを仏像はあらわしているのです。
イカメシイ顔も優しい顔もともに悟り、菩提、無上の叡智に導かんとする慈悲の心。
身心の盛んな出しゃばり、しゃしゃり出る、自我の見解を片っ端からたたっ斬る慧剣。
羂索をもってブレ、ズレの無いところに縛り付けておいてくれる動ぜざる働きとは、人間の考えではない処。非思量。不思量。
そういう心地、本地を不動心とは申すなり。
場所のことではない。
心のありようのこと。
坐禅、禅定、三昧、静慮。
自身を自身が見守っているまなざしは仏の慧眼。

そういう生き方がある。そういう態度がある。
そういう心がある。そういう処し方がある。
そういう行じ方がある。

自らお不動様、自ら不動明王となって、人間の中の人間を放下して、我もエゴも捨てて捨てて静かに向き合うところ、誰にでも本有の不動明王は必ず現れるのです。
別にそれはいわゆる仏像の不動明王のカタチをしているわけではない。
それよりももっと素晴らしいありようとして生き生きと現れる。
「ああ、ここか。このことか!」と明らめるまで、自身の中に求めてみるとよいでしょう。
絵空事ではないということがハッキリするでしょう。

不動明王とは外の仏にあらず、自己の本来性なり。
無為無作の功徳なり。
事に処してことに転ぜられず、私情私心の無き寂黙の相。
明らめ得れば諸々の煩悩を離れ、菩提を究尽す。

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質問者からのお礼

お忙しい中、ありがとうございます。心のもやもやがだいぶとれたようです。他の宗派でごまたきに参加したときや、住職が仏像に念?を入れるとそれがあたかも力をだすような事を他の宗派のお寺で言われ、高額の仏像を買いましたが、自分の考えを違い、そのお寺の仏像を拝むことこそが仏の力を得ると感じ、自分自身の心より仏像という個体に固執していました。霧がされたような感じです。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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